嫌いなものについて書くより好きなものについて書くほうがずっと難しい

「新潮」1月号から連載が始まった磯崎憲一郎の「電車道」を毎月、といっても次出る3月号でまだ3回目だけど、とても楽しみにしています。

先々月、ブログに感想を書いた岡田利規の戯曲「地面と床」の台本が掲載されていたのも、やはりこの1月号でした。文芸誌をちゃんと買って読んだのはこれがけっこう久しぶりで、以来、発売日を毎月楽しみに待つようになって、これもまた自分にとって久々の状況なので、本当にあの号があってよかったなあ、ありがとう、と思っています。

ただ、あの1月号みたいに表紙や目次によほど興奮させられないと、購入には至らず立ち読みで済ませてしまうので、その点は本当、申し訳ない気持ちでいっぱいです。せめてもの誠意として、「電車道」が書籍になったら買います、とここに宣言します。

さらに、この申し訳ない気持ちをすこしでも和らげるために、というかそもそもそのために「電車道」のことをブログで紹介しようとこれを書き始めたのでしたが、いざ感想を述べようとすると、あれのどこがどういいのか、説明するのが難しいということに気づきました。

読んでいて、いいなあ、好きだなあ、と思うこの感じを他人に伝えるのって難しい。その感じのことをなんとなく同じように共有してそうな人と、「あれ読んだ?いいよね」みたいに話し合うことはもちろんできるし、そういう前提から出発すると、その先のいろいろ細かいところまで話せるから楽しくて有益。でも、その感じについてゼロから説明するのはとても難しい、というかそういう機会が自分にはあまりないから難しくても実はぜんぜん困ってなくて、まさにその困ってないこと自体が問題な気がする、なにかをさぼったり諦めたりしているみたいな後ろめたさを感じてしまう。

さいきんちょっときっかけがあって、学生のときに好きでよく読んでいたある作家の小説を初期のものから順に読み返しています。いいなあ、好きだなあ、と思いながらずんずん読める。それで、いいなあ、好きだなあ、と思うこの感じはどうやったら説明できるのかとまた考えてみるのですが、やはり難しくて挫折してしまいます。ただひとつ言えるのは、その作家の小説には、いま述べたような後ろめたさみたいなものがまったくなくて、つまり何か曖昧な思いとか気持ちとかにきちんと向き合って、それらのことを「わかるわかる」と言ってくれる人だけへ向けて語るのではなくて、何の前提にも頼らずに、それらについてゼロから丁寧に語ろうとしていて、どうやらそういうところに僕は好感を覚えている、どころかほとんど憧れに近い気持ちを抱いている、らしい。

作家名を言ってしまうと、またその作家について多くの人が持っているイメージを前提にしてしまうような気がしてあえて言わなかったのですが、そうすると誰だか何だかわからないものを紹介することになって、そんな何を紹介しているのかもわからない紹介なんて本末転倒で無意味なので、作戦は完全に失敗しました。

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せっかく自分たちで始めた古書店という場があって、こうして文章を載せられるブログもあるので、いろいろ発信していきたいと思っていろいろ書いてます。そしてどうせ書くなら、いいなあ、好きだなあ、と思えるものやことについて書きたい。でもそのつもりで書いたものを読み返してみると、何かを「よい」と言うために別の何かを持ってきて、「これはあれのようではないからよい」みたいな方法でやってるところがけっこう多くて、落ち込みます。今日のブログもちょっとそうですし。

嫌いなものや嫌なことについてなら、いくらでも言葉が出てくるのに、好きなものやことについては、「好きだから好きなんだ」と叫んでおしまいにしたくなってしまう。なんでなんでしょうか。結局ぜんぜん紹介できなかった磯崎憲一郎の「電車道」の第三回が掲載されるであろう明後日発売予定の「新潮」3月号でも読みながら、そんなことをまた一生懸命考えてみたいと思います。

 石鍋


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