文・クラリスブックス 高松

映画が好きな人など、おそらく一億人はいるだろうけれど、映画の趣味が合う人はなかなかいない。

好きな映画は何ですかと聞いて、『ローマの休日』と答えられても、ああそうですか、いい映画ですね、という返事しかできないが、『何がジェーンに起こったか』と答えられれば、おそらく一時間以上嬉々として話すことができるだろう。
いったい映画は今までどのくらい作られたのだろう。星の数ほど存在するであろう映画の中で、誰もが吸い寄せられる超巨大恒星ではなく、ほんとにか細い光を僅かに発している星に引き寄せられる時、そしてそこに、偶然にも同じく引き寄せられた人たちと出会うことができると、単純に、とても嬉しい。
超巨大恒星は誰に対しても均等に光を照らし出す。そして、皆がその恩恵にあずかることができるけれど、か細い光しか発していない小さな星は、こちら側がしっかり受け止めてあげなければならない。ただ、しっかり受け止められさえすれば、そのか細い光は、実はものすごいエネルギーを内に秘めていて、それは超巨大恒星が放つ光とは比べ物にならないくらいの強烈な光線であることが分かる。

映画好き三人が集まって、自分たちのベスト10を出し合うという会をやった結果、なんとなく予想はしていたけれど、唯一、エドワード・ヤンの『牯嶺街少年殺人事件(クーリンチェ少年殺人事件)』だけが重なり合った。子供の頃から映画好きで、かなり頻繁に映画館に足を運んでいるといっても、我々が見ている映画など、ほんとにほんとに極々一部にすぎない。特に私など、うわべだけをさらりとさらっている程度しか見ていないわけだが、それでもこの作品が我々唯一の共通項になるのは、この作品が持っている深いテーマ性、そしてそれを支える映画的手法の窮極を感じ取ることができたからだろう。

映画を見るという行為は読書と同じように、一対一の対話だと思う。演劇やライブと違い、満員の映画館であっても、一人作品と向き合う。私はそこが好きなのだが、人間は社会的動物なので、映画から得た感動を誰かと共有したくなる。そういった共通感覚を見出すことが、さらによい映画の発見にも繋がるし、その映画へのより深い理解にも繋がる。クラリスブックスで時々開催している読書会でも同じようなことがいえるかもしれない。読書会で時々映画の話に脱線してしまうのは、映画を見るという行為と本を読むという行為に、何か共通する文化的営みがあるからかもしれない。

ともかく、太陽のように強い光を誰に対してもまんべんなく照らし出しているような作品に、我々はついつい引き寄せられてしまうが、ちょっと注意すれば、ものすごい作品はいくらでも存在する。物理的な問題として、我々人間には時間的制限があるから、見ることができる映画というのは限りがある。だから、か細い光を見落とすことのないようにしたいと思う。