文・クラリスブックス 高松

久々見たヒッチコックの『知りすぎていた男』がほんとに 素晴らしかったー

この映画、私にとって特に思い入れのある作品。
今から33年前の1986年、日曜洋画劇場放送20周年記念で、ヒッチコック作品4本と、前年に映画館で上映したばかりの『アマデウス』を放映するというプログラムがあった。当時小学生だった私は、わけもわからず、毎週テレビに釘付けになった。ヒッチコック作品は『知りすぎていた男』の他に、『裏窓』『めまい』『ハリーの災難』という、まさに珠玉の傑作ばかり。ネット配信で映画を見ることがなく、また、レンタルビデオもそれほど普及していなかった80年代にあって、テレビで放映する映画はとても貴重なものであった。だからこそ、今と違って、タイアップや宣伝をかねて放映するということはそれほどなく、番組制作側の、いい映画を視聴者に届ける!という想いがひしひしと感じられた時代でもあった。司会の淀川長治のあの名調子をいつも楽しみにしていたものだ。

この特別プログラムのヒッチコック4作品で特に私が興奮したのが、この『知りすぎていた男』だった。他の作品も覚えているが、おそらく小学生には少し難解だったのかもしれない。これら他の作品の本当の素晴らしさを理解できるようになったのはそれから10年ほど経ってからだった。

さて、『知りすぎていた男』、これば1956年の作品だが、改めて見直して、まさに、映画的娯楽要素が存分に詰まった大傑作、であった。映画好きな人にとってこの作品は当たり前すぎるほどの名作ということは知れ渡っているので、なにを今更という感はあるが、観客をいかに楽しませるか、ドキドキさせるかということを最も重視していたヒッチコックの、まさに職人業が冴え渡る一作であることを痛感させられたのであった。
この作品は、1935年、ヒッチコックのイギリス時代に同じタイトルで撮ったもののリメイクである。(1935年版の日本語タイトルは『暗殺者の家』)。二つの作品についてヒッチコックは、フランソワ・トリュフォーとのインタビューで、「最初のイギリス版はなにがしかの才能のあるアマチュアがつくった映画だったが、リメークのアメリカ版はプロがつくった映画だったわけだ」とコメントしている。そう、まさしく、プロの作品である。

この映画、とにかく構造がしっかりしている。
だらだらさせず、さりとてずっと猛スピードというわけでもなく、抑えるところはしっかり抑えて、走りきるところは一気にというように、とても居心地がよい。
物語前半、ドリス・デイが演じる、ジェームズ・スチュアートの妻であるジョーが「ケ・セラ・セラ」を子供に歌って聞かせ、子供は口笛で応答する。何気ないほのぼのとしたシーンだが、これがラストのラスト、大使館に呼ばれたジョーは、そんなフォーマルな場には少し不向きと思われる「ケ・セラ・セラ」を高らかに、もっと言えば、その大使館に人質として捉えられている息子に響くように、ほとんど泣き叫ぶような歌声を披露するのだ。子を想う母親の痛切な心の叫びとも思えるその歌声は、冒頭の子守唄としての「ケ・セラ・セラ」とは、同じ歌であるにもかかわらず、全く意味が異なる。この初めと終わりをしっかり結びつける辺りに、2時間ほどのこの映画の骨組みの頑強さ、そして巧みさを感じ取ることができる。

そしてこの映画で決して忘れられないのは、というより、まさにこの映画はこのシーン、と言えるのが、コンサートでの、ラストのシンバルである。
いかにして、このシンバルの一撃のシーンに我々見るものを誘導するか、その瞬間に意識を持っていかせるか、この映画の心臓部とも思えるこの有名なシーンは、映画中盤、暗殺者グループがアジトの教会に落ち合うところからその導火線が引かれている。
その教会でグループのリーダーが実行犯に政治家暗殺の手順を教えるシーンがある。
「君は音楽に詳しくない。引き金を引く瞬間を覚えるんだ。いいか、シンバルのところだ。同時に撃てば銃声が消える」
そう言って、レコードでその曲を聞かせる。このシーンだけでそのシンバルの最後のフレーズを3回も流していた。実行犯に覚えてもらう為だが、同時に我々観客にも覚えておいてもらう為でもある。
ここで重要なのは、ラストのアルバートホールのシーンで、しかも狙撃のまさにそのタイミングまで我々観客が知ることになるということだ。成功するか失敗するかは別として、ともかくコンサートが始まり、ヒッチコック作品の常連の作曲家バーナード・ハーマン編曲の、これでもかというくらいに大げさに盛り上がるあの名曲の最後の最後、シンバルが打ち鳴らされるその瞬間に、「何かが起こる」わけだ。時限爆弾のタイマーが作動したといってもいいだろう。ヒッチコックはトリュフォーとのインタビューで、「観客が楽譜を読むことができたら、もっと理想的だったろう」とすら言っている。

ごく普通のアメリカ人観光客が国際的テロに偶然巻き込まれる。しかも子供が誘拐され、もはや後戻りが出来ない状況。我々は主人公マッケンナ夫妻の視点でずっと物語を追っていたが、このテロリストたちの会話により、その視点は一歩後ろに下がりつつも、この世界の一員としてこのドラマを観察することになるのだ。
主観的視点から世界への没入という、この視点の切り替えにより、このドラマ全体が一体どこに向かって突き進むのか、暗殺は阻止できるのか、そして誘拐された子供を無事奪還できるのか、もはや誰にもわからない状況に陥れられ、我々観客はただただハラハラドキドキしてしまうのみ。刻一刻と迫るコンサート、そしてラストのシンバル。この緊張状態を、当時映画館の大きなスクリーンで見た人はどれだけ興奮したことだろう。

このテロリストたちの会話のシーンで思い出されるのは、フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』のあるシーンである。
アル・パチーノ扮するマイケル・コルレオーネがソロッツォと悪徳警官をレストランで暗殺するあの有名なシーン。ボディチェックをされるからマイケルは銃を持っていくことができない。しかしあらかじめそのレストランを手下が突き止め、先回りしてトイレの水槽の裏に銃を隠しておく。何気なくマイケルがトイレに行き、そしてその銃で暗殺するという筋書きだ。
近くを通る電車の軋む音がバックグラウンドで響きつつ、いよいよマイケルは二人を暗殺する。この一撃でマイケル・コルレオーネの人生は大きく転換し、物語も複雑にそして激しく進むことになる。
我々観客はそのレストランのシーンの前に、この暗殺をコルレオーネファミリーが画策しているのを知っている。しかも、トイレから出てきたらすぐ撃てとか、銃はそのまま捨てて逃げろなどなど、綿密な計画である。
つまり、そのコルレオーネファミリーの暗殺を画策しているシーンは、『知りすぎていた男』でテロリストが政治家暗殺を事細かに画策するシーンに合致する。

観客にあらかじめ筋書きを教えておくということは、その瞬間にアッと驚かせるのではなく、その瞬間にいたるまでに、一体どうなるのかという期待を持続させる効果がある。

ヒッチコックは、芸術家というより、職人であったと思う。名作『サイコ』の当時のポスターには、監督ヒッチコックが腕時計を指差し、「映画が始まった後は誰も入場できません。」というコピーがあった。つまり、最初からラストまでしっかり見てほしいということなのだが、自分の監督作品に、主演俳優を差し置いて監督が自ら出るなどということは、映画史的に見ても、それまでも、またそれ以降もなかったのではないか。それほどまでに、観客をいかに楽しませるか、ドキドキハラハラさせるかに主眼を置いていた監督であった。この『知りすぎていた男』でも、当時の予告編では、主演のジェームス・スチュアート自ら登場し、「私ジェームズ・スチュアートはアメリカ人医師、そしてドリス・デイはその妻です。楽しい休暇旅行が悪夢に変わる物語。さあ皆さん、ぜひお楽しみください!」などと楽しげに語りかけている。

映画は芸術にもなりうるし、同時に娯楽でもある。しかし、どちらにしても、映画的手法や、観客に訴えかけるテクニックというものが必要で、それが欠けている映画は、芸術にも娯楽にもならない。すぐれた映画は、まず映画的テクニックという基礎工事がしっかりされているのだ。
ヒッチコックの映画に政治的主張や哲学的世界観を見出すことは難しい。なにか教訓めいたことがあるとすれば、せいぜい、見知らぬ乗客とあまり仲良くならないようにとか、美しい女性には気をつけろとか、他人の家をあまり覗き見するなといった程度である。
観客を楽しませる、ヒッチコックが目指していたのは、ただただその一点である。

▲このシンバル奏者がヒッチコックに似ているという指摘をトリュフォーから受け、「それはまったくの偶然だよ!」とヒッチコック。

*参考文献は、一家に一冊と言っても過言ではない、『定本 映画術 ヒッチコック トリュフォー』改訂版 晶文社 1990年初版 2015年第18刷 です。