文・クラリスブックス 高松

先日、午前10時の映画祭で上映していた『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』を見てきた。1988年公開当時、何回か映画館に足を運んだ、私にとっては思い出深い作品だ。

当時中学生だった私は、この作品にあまりに感動して、何か記念になるものが欲しくて、雑誌「ぴあ」の小さな広告に、“映画チラシ・ポスター販売”と謳っていた赤坂シネマテイクに電話して在庫を確認し、アメリカ版の大きなポスターを買い求めた。赤坂の雑居ビルの3階にあったその店には、その後も何度か足を運び、『博士の異常な愛情』のパンフレットの在庫を聞いて、「いやー、あれはないよ。なかなかないよー」と言われたのを今でも覚えている。残念ながらすでに閉店しているとのこと。
他にも三軒茶屋や早稲田の古書店街をうろうろした記憶がある。中学生ながら、よく動いたものだ。


▲パンフレットに載っていたアメリカ版のポスター。

さて。
スウェーデン映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』、細かい事を言えばきりがない程、細部にわたって大好きな映画だが、あらためて見直して、とにかく主人公イングマルの強さに圧倒された。

彼は口癖のように、「僕はそれよりマシだ」と言う。
槍投げの槍が飛んできて胸に突き刺さった人、キリスト教を布教しにいって撲殺された人、バイクの曲芸で失敗して死んでしまった人、などなど。そしてそういったことの象徴としてのライカ犬。
人類の宇宙進出の先駆けとして、旧ソ連のスプートニク2号に縛り付けられて飛ばされた、実験のために使われた犬だ。体中に数値を計るワイヤーを付けられて、食料が尽きるまで地球をくるくる回ったライカ犬、死ぬのがわかっていて宇宙に飛ばされたライカ犬。イングマルは、それが一体何の役に立ったのだろうと考える。人類の文明は発展したかもしれない、しかし肝心なのは人々が平和で幸せに暮らせるかどうかだ。イングマルのこの素朴な問いかけは、非常に根本的で、かつ哲学的なものだ。それは、『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の思想にも流れる地下水脈のように、細々とゆっくり、しかし深くしっかり流れているように思えてならない。
彼の「自分は幸せなんだ」という考え方にどれだけ救われたことだろう。世の中を見渡せば不幸な人はいくらでもいる。悲劇は常に世界中で起きている。それぞれがそれぞれの悩みを抱えている。自分と他人を置き換える事などできない。しかし、まさに今ここにこうして生きている、そのことだけで、自分はなんて幸せなんだと思えるイングマルの強さ。彼のこの考え方は私の心の奥まで響き、か細い吊り橋に揺られながら歩んできた人生だったが、なんとか落ちる事なく、また自ら諦める事なくこの歳まで生きてこられた、それはこの映画のおかげかもしれない、とあらためて劇場で見直してつくづく感じた。

私は当時この映画を見て、漠然と、スウェーデンという国、田舎町、不思議な少女サガ、そしてそこに登場する人々すべてが好きになった。母の死や愛犬の喪失など、思春期の多感な時期に辛い事が畳み掛けるように彼に襲いかかるが、イングマルは「僕はそれよりマシだ」と言う。
イングマルと同年代で、ある意味、複雑な事情が絡んでいるにしても、当時、なんとなく彼と似たような境遇に置かれていた私は、30年経って、ようやくこの映画をまっすぐ見ることができたのかもしれない、と思う。

ところで、午前10時の映画祭、現在9回目を数えるが、来年から始まる10回目で終わってしまうとの事。とても残念。始まった当初は、なんとなく、昔の映画好きなおじさま達向けの感が強かったように思うけれど、ここ数年はSNSのおかげで若い人も足を運んでいたように感じた。映画の見方は人それぞれだが、私は初めて見る映画は可能な限り映画館で見たいと思っているので、過去の名作を映画館で上映してくれたのはとてもありがたい事だった。また新しい形で復活してくれることを強く希望する。




流れ動く二人の間に交差する視線と微笑みかけるサガ、そのすべてが美しい。