先日、『ネバーエンディングストーリー』を映画館で見るという機会があった。名作『キャロル』の監督トッド・ヘインズの新作『ワンダーストラック』がユジク阿佐ヶ谷で上映するのをきっかけに、期間限定での上映があったのだ。なぜこの二つの作品が関連づけられるのかと言えば、おそらく、一冊の本から生み出される物語、子供、そして古本屋、という共通項がそこにあるからだろう。そのような着眼点をおいてくれたユジク阿佐ヶ谷に感謝したい。

『ネバーエンディングストーリー』、公開当時、私は10歳だった。映画館で見るのは約30年ぶりだ。

1985年春に公開のこの作品、私は映画館に行った時のことをよく覚えている。場所は、今はなき有楽町の日劇、姉と二人で見に行ったのだった。私の両親は私が幼い頃に離婚したので、年の離れた姉と兄が親代わりとして、幼い私の面倒を見てくれた。特に姉は映画が好きだったため、私をよく映画館に連れて行ってくれた。『ネバーエンディングストーリー』も、おそらく子供の私が見たいと騒いだので連れて行ってくれたのだと思う。
夕方の回を見て、あまりの面白さの為、私はもう一回見たいと騒いだ。姉も楽しんだようだったが、とにかく私はもう一度見たくて、結局、再度、席に着いた。ところで正確な年代は分からないが、90年代後半まで、映画館は基本的に全席自由席、しかも、特別上映以外は回ごとの入れ替えもなかった、はず。もちろん、場内の清掃などで、一旦は外に出るのだが、再度チケットを購入することなく、再入場することができた。だから、映画館に一日中いることができたのだった。9歳の時に見た『スターウォーズジェダイの復讐』(今は「ジェダイの帰還」という副題になっているが、私はあえてこのタイトルで呼んでいる)など、一回目は一番前の席、次は後ろの方の席という具合に、席を変えて、映画館にいること自体を楽しんだものだった。端の方でいちゃついているカップルや、グーグー寝ている外回りのおじさんなど、私は無意識のうちにいろいろなことを映画館で学ぶことができた。映画館は学校だった、という言葉は、なにも映し出される映画から学ぶという意味だけではなく、まさに文字通り、映画館そのものが学びの場所だったのだ。

さて、ユジク阿佐ヶ谷での『ネバーエンディングストーリー』。思い出は思い出として取っておいた方がいい場合もある。初恋の人とは大人になってから会わない方がいいように、素敵な思い出はそのまま触れずにしまっておいた方がいい場合もある。映画館で上映されるということを知って、すぐに見に行きたいという衝動に駆られたが、見ない方がいいかもしれないという気持ちもどこかにあった。それは子供の頃、あの日劇の大きなスクリーンで2回連続で見たときの、あのなんとも言いようの無い感動、さらに、こんな悲劇がこの世に存在するのかと思うほど嘆き悲しんだ、アトレーユの愛馬アルタクスが沼に沈んで死んでしまうシーン、また、ファルコンとともに空を勢いよく飛ぶあの爽快感などなど、そのような心の躍動が、果たして30年以上経ってどのように感じられるのか、もしかすると、ものすごくちゃちなものとして映ってしまうのではないか。そして、もしそのように感じられてしまったとしたら、なんだか自分の心が悪に染まってしまっている証拠になるのでは、などと案じてしまったのだった。(ダークサイドに堕ちると目が黄色くなる。私の目はまだ黄色くなっていないから大丈夫かもしれない)

そんなことを考えつつも、映画館で映画を見るのが好きな私は、結局見に行くことにした。
見終わって、実にいろいろなことが頭に浮かんだ。子供の頃は泣くことなどなかったであろう、冒頭、あの有名なテーマ曲が流れるシーンで、いきなりこみ上げるものがあった。そしてその瞬間、本当に、当時の思い出がぐるぐると頭の中を駆け巡ったのだった。それは本当に衝撃的だった。映画は、映画そのものだけの記憶に留まらず、その時の自分自身をも呼び覚ます。目の前に子供だった当時の自分自身が座っているかのような錯覚とでも言おうか、戻りたいような、戻りたくないような、得体の知れない感覚が私を襲った。アトレーユの愛馬アルタクスが沈むところで泣くことはなかった代わりに、ぬいぐるみ感丸出しのファルコンが登場した時に、思わず涙が出てしまった。歳をとった私には、ファルコンはもはや大きな犬のぬいぐるみにしか見えない。当時の私はファルコンを、本当に、空を飛ぶ白い龍と思っていたのだろう、あの大きな犬のような顔をしたファルコンの絵を画用紙に描いて遊んだ記憶すら蘇ってきた。
映画はあっという間だった。こんな短い映画だったとは、少し驚きであった。もっと長い映画、大冒険活劇のような印象があった。自分の個人的感情をなるべく除外してこの映画について考えると、とてもよくできた、子供向けファンタジー映画、と言えるだろう。岩のごつごつとした質感や、沼のぬめぬめ感、吹きすさぶ嵐の描写など、とてもよくできていると感じた。ユジクに私が見に行った回では親子連れが並んで見ていたが、それはとても微笑ましい光景だった。家で気軽に映画を楽しむことができる時代にあって、こういう映画をあえて映画館で見るということ、これはとても大切なことのように私には思えた。30年後にこの子達も私と同じようにまた映画館でこの映画を見ることができるだろうか。そして、ファルコンを空飛ぶ龍と思えるか、あるいは大きなぬいぐるみと思ってしまうだろうか。

最後に、主人公バスチアンがいじめっ子から逃れるために古本屋に駆け込んで、“ネバーエンディングストーリー”と書かれた一冊の分厚い古びた本を見つけるという、一番最初の、そしてとても重要なシーンが、実は今回見なおして一番衝撃だったかもしれない。そのシーンはなんとなく覚えていたものの、その、古びた重々しい蔵書がぎっしり積み重なって、気難しそうなおじさんがドドんと座って本を読んでいるという、まさにその状況が一つの古書店の典型として私の脳裏に焼き付いていたことに、30年以上経ってようやく気付いたからだ。私は現在小さな古書店を営んでいるが、そして、この映画を10歳の時に見たことがきっかけで古本屋の店主になりたいと思ったことはなかったし、思うはずもなかったが、心の奥底に、ほとんど無意識の内にその光景が入り込んでいたのかもしれない。映画の影響とは恐ろしいものである。

 

文・クラリスブックス 高松