クラリスブックスが開業してまだ1年も経っていない頃、おそらく2014年の秋頃だったと思う。本の買取のご相談をいただいた際に、こんな本がありますということを併せてお知らせいただいた中に、アンナ・カヴァンの『氷』のサンリオ文庫版があった。状態を直接拝見しないと正確な買取金額は申し上げにくいということ、また、稀少本ではあるけれど、昔のような価格ではないということなどをお伝えしつつ、しかし内心、まだ店頭に本の在庫が全体的に少なく、こういった種類の本を置きたいという気持ちもあり、ともかく、お近くだったので、出張買取にて対応させていただいた。

もちろんその他にもいろいろな良本をお出しいただき、『氷』も、文庫本一冊としてはそれなりの金額を提示し、結果的にすべての買取金額にもご満足いただいた。

さて店に戻って、アンナ・カヴァンの『氷』をいくらにしようか迷った。考えあぐねた結果、5,800円という金額で店頭に出すことにした。少し高いと思いつつ、すぐに売れなくてもいいという思いもあってこの金額にしたのだが、数日後に店頭であっさり売れてしまった。状態もよく、いい本を買えましたとその方はおっしゃっていただき、嬉しくもあり、驚きでもあった。

古本買取クラリスブックス SF

そんなことがあった後、たしか1ヶ月くらい経ってからだろうか、ちくま文庫でアンナ・カヴァンの『氷』が再版されるというニュースがネット上に流れてきた。そもそもこの作品は、一番最初にサンリオSF文庫で出版され、その後バジリコ出版から単行本が出て、そしてちくま文庫に収まることになったのだが、バジリコから出される時に、少し訳を変えている。ちくま文庫版は、バジリコの改訳版の文庫化なので、一番最初に出版されたサンリオSF文庫版とちくま文庫版では少し訳が変わっている箇所がある。どのくらい改訳しているかは分からないが、そういう意味では、サンリオSF文庫版は、容易に入手できるようになったちくま文庫版とは内容が異なることになるので、初版としての価値も増すだろうが、しかし、一般的には、改訳版のほうが読みやすくなっているはずだし、よほどこの作品に思い入れが無い以上、ちくま文庫での出版は、初版としての価値がなくなってしまうことになるのではと私には思えた。

古本買取クラリスブックス SF

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5,800円のサンリオSF文庫のことがすぐさま頭に思い浮かび、この作品を読みたいだけであれば、かなり高い文庫であったはずだ。そのお客様に申し訳ないように思った。しかしそのお客様はその後も当店に足繁く通っていただき、また、不要になった蔵書もお売りいただいたりもした。こちらからお話をお聞きすることはなかったけれど、購入される本の内容から、状態のいい初版本はしっかり手に入れるという考えをお持ちであることが推察された。

そんなことがあって、私の頭の中にはアンナ・カヴァンの『氷』がどこかにこびりついていたのだが、ついにちくま文庫で出版され、私はようやく読むことにした。新刊書店である、同じ下北沢のB&Bで購入した。
一言で言えば、衝撃だった。がつんと打ちのめされた。何に衝撃を受けたのかなどと聞かれても、すぐには答えられない、そのなんとも底なし沼に落ちたような、漠としたイメージを我々読者に植え付けてしまうところ、内容を通り越して、この薄っぺらい一冊の文庫本が私に与える影響、そして、物としての本の力をまざまざと見せつけられたのだった。

なるほど、初版本の持つ魔力とはこういうことなのかと、古書店を営んでいる身であるが、個人的にはそれほど初版本を蒐集するということに興味がなかったが、ようやく、何かその魔力がどのようなものなのかが、私にも分かってきたように思えた。その後、実は数回入荷したサンリオSF文庫版の『氷』。すでに売れてしまったが、今更ながら、私も初版が欲しくなった。

この『氷』に衝撃を受けて、アンナ・カヴァンの短篇集『アサイラム・ピース』を読んだ。これもまた爆・漠とした作品。私は夜の就寝時に本を読むが、この短編を読んだからに違いない、久々悪夢を見た。色白の髪の長い女性と二人きり。どういう状況なのかはわからず、友だちというわけでも、もちろん恋人でもなく、他人でもない感じ。なにか日常会話をしていると、突如その女性がナイフを持ち出して自分の口に入れて、ぐいぐい耳の辺りまで口を切り裂いた。口避け女である。なぜか血が出ず、消しゴムをカッターで切るように、彼女の口はその反発力で綺麗に切り裂かれた。そして私の目の前にひん曲がった巨大な口の女性が現れた・・・久々怖くて目が覚めた。作品中にはこんな口避け女は登場しないが、『アサイラム・ピース』、悪夢を見たい方に確実にお勧めできる作品だと思われる。

古本買取クラリスブックス SF

 

さすがに現在ではサンリオSF文庫版も価格は落ち着いてきているように思われる。ここ最近はあまり見かけなくなってしまったが、もしまた見かけることがあったら、しっかり自分の手元に置いておきたいと思う。

 

文・クラリスブックス 高松