文・クラリスブックス 高松

今回は少し昔の話を。

待ち合わせで人をどのくらい待つことができるだろうか?
状況や相手にもよるだろうが、2~3分で諦める場合もあれば、1時間以上待つ場合もあるだろう。
手塚治虫の『火の鳥 未来編』には、五千年間待った男が登場する。

私がこの名作『火の鳥』に出会ったのは小学校六年生の時だった。今から三十年くらい前か。
おそらく新学期が始まってまもなくの頃だったと思うが、六年生の時、私は風邪をひいた。いわゆる鍵っ子だった私は、お金と保険証を持って一人でかかりつけの病院に行った。それほど辛い風邪ではなく、ちょっと頭がぼーっとして、喉が痛い、という程度のものだったのだろう、病院で診察を受け薬をもらった。少しお金が余ったので、私は帰り道、なんとなく街の本屋に入った。そこで、なにやら分厚い1冊の本が私の目に飛び込んできた。それが、手塚治虫の『火の鳥』だった。わたしの知っている手塚治虫とは全く異なる表紙。私の知っている手塚治虫は、『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』それに『ブラックジャック』だった。ただ、その頃はまだ大して詳しくはなかった。たまたま家に『ブラックジャック』が数冊あり、手術シーンが気持ち悪くてちゃんと読んでいなかったが、よく耳にする手塚治虫という名前に、なんとなくすごい人ということだけはわかっていたかもしれない。
ともかく、手塚治虫という漫画の神様についてろくな知識がなく、ほとんど直感的に、この『火の鳥 未来編』を買ったのだった。

風邪で体が多少ふらふらしつつも、ともかく私は家に帰り、残っていたパンを少しかじって薬を飲んだ。少し悪寒もするので、布団に入ると気持ちよかった。インフルエンザのような強力な風邪ではなかったため、何か子供の風邪特有の心地よさを伴う忘却感があった。
薬は比較的すぐ効いたようだった。頭の回転が鈍くなり、目をつむると、自分の体が巨大化して、その為遠くのものが近くに感じたり、逆に目の前のものに手が届かない錯覚に襲われた。
そんな中、私は『火の鳥 未来編』を読み始めた。

『未来編』というタイトル通り、舞台は未来である。
人類は各地に超巨大地下都市を建造し、人々はそこで生まれ、暮らしていた。各都市にはコンピューターの“頭脳”が存在し、およそあらゆることを裁量、決定し、人々はそれに従っていた。しかしある時、その“頭脳”どうしが喧嘩を始め、それがエスカレートして戦争が始まることとなった。結果的には、地球上のすべての都市が核爆弾によって破壊され、一瞬のうちに人類は滅亡。しかし運良く生き延びた主人公は、火の鳥に導かれて、“死なない体”にさせられ、いつか新たな知的生命体がこの地球に出現するまで見守る役目を負わされることとなった。仲間や恋人も死に、一人取り残された主人公。ある時主人公は、地上の観測所を発見し、そこで棺桶のようなものを見つける。そこには外に張り紙が貼られてあり、「放射能の汚染が消えるまで、五千年間私は眠る。起こさないでほしい。」とあった。話し相手が欲しい主人公。誰でもいい、誰かと会いたい。主人公はどうせ死ねない体なので、五千年間待つことにしたのだった。五千年!

五千年間、待つことができるだろうか?
五千年というのは、ものすごい数字だ。逆に五千年前を考えてみると、、、ようやく人類は文明を築きはじめたところだろうか。少なくとも、エジプトやメソポタミアでその萌芽が現れていただろう。しかし、およそ歴史というものはまだ存在していないと言っていい。プラトンもアリストテレスもいない。ブッダもキリストも誕生していない。
今から五千年前、つまり紀元前三千年、そこからずっと、たった一つの目的の為に生きていかなければならないとしたら、それはどれだけ苦しいことだろう。しかも、誰もいない、たった一人で。文明が進化発展していく様をみることもない。ただただ、太陽は昇り、そして沈む。月は満ち欠け、星々は輝き続けている。変化はそれら自然のみ。そんな残酷な苦行、決して耐えられない。しかし、死ねない体の主人公は、耐えられる、いや、耐えざるを得ない。その苦行を受けなければならない。

この話は『未来編』全体の中では、特に重要な位置を占めているわけではないけれど、当時読んだ私にとって、五千年間待つという行為は、ものすごくインパクトのあるものだった。

子供の頃は一年という期間がものすごく長い。来年には中学生になるという意識は全くなく、遠い遠い未来のこととしか思えなかった。中学校の次は高校生、そして大学生。ほとんど想像すらできないほど遠い世界の話で、まさか自分がそのように大人になっていくことなど、考えることができなかった。
一年や二年という単位すら想像出来ないほど未来のことと思っていた私にとって、五千年という単位は、理解不能な数字だったかもしれない。
しかし、風邪と薬の影響で意識が遠のく中、私は漫画の世界に没入し、もはや主人公と同化していたのだった。五千年間待つ、いいだろう、五千年待とう!どうせ死ねないんだから。一年二年三年と、それが百回繰り返されて百年、そしてその百年を十回繰り返して千年、五千年は、それを五回。
夢か現実か、あるいは漫画の世界か、それらが判別つかない不可思議な状況にあって、私は、少なくとも自分自身の意識の中では、五千年待つという、この全くとんでもない体験をすることができたのだった。

『未来編』を読んだ時のその不思議な体験は、単なる風邪が原因の体調不良によるものであって、何か神秘的な出来事などでは決してない。しかし、たまたまそのような状況下でこの傑作を読んだという事実は、私には大変意味のあるものとなり、それが起因し、私は哲学や宇宙論に興味を持つようになった。
この分厚い一冊を一体どのくらい読み返しただろう。その後、『鳳凰編』『黎明編』『宇宙編』など、ほどなく『火の鳥』全巻を読み終えた私は、その後の人生において、ずっとずっと、火の鳥とともにあるような、気がしてならない。

病院の帰り道、偶然入った街の本屋で購入した『火の鳥』、今ではその本屋もない。今の子供たちは、私のこのような偶然の出会いを街の本屋で経験することがないのかと思うと、少し残念でならない。

 

 

文・クラリスブックス 高松