男はもう時計を売るのをやめた――台湾映画について02

台湾映画についてのブログその2。前回は極めて私的な台湾映画史を概観しているうちに感極まってトンでしまったので、2回目はなるべく落ち着いてツァイ・ミンリャン監督作のレビューを書きます。

・台湾映画について01「あなたが描く ” 孤独 ” は映画館で見るのでないと嫌だ」はこちらからどうぞ

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▲ 『郊遊』より。このシーン好きだ

文・石鍋健太

ツァイ・ミンリャンはデビュー作『青春神話』(1992)から引退作『郊遊(ピクニック)』(2014)まで、すべての作品でリー・カンションを主演に起用し続けた。トリュフォーにとってのジャン・ピエール・レオ、コクトーにとってのジャン・マレーが想起されるが、それ以上の存在といってよいだろう。リー・カンションはツァイ・ミンリャンの分身でも詩神でもなく、映画をつくる動機そのものであり、映画をつくる唯一の具体的手段でもあったのだから。この21年間スクリーンに映じた無数の仏頂面のうちのどれをとってみてもそのことは明らかだし、ツァイ・ミンリャン自身も「私の映画はリー・カンションの顔そのもの」と断言している。

事実、リー・カンションはツァイ・ミンリャンの映画のいたるところに現れる。「小康(シャオカン)」という呼び名だけを共通して背負い、1つの作品にも1つの主体にも閉じ込められず、物語にも縛られず、ただ “ 映画 ” だけに翻弄されながら現実とよく似た街を彷徨い続けてきたのだ。『那邊幾點』(97)、『天橋不見了』(02)、『天邊一朵雲』(05)など、『郊遊』に至るシャオカンの静かな歩みの軌跡の一部を辿ることで、ツァイ・ミンリャンの映画についてすこし語ってみたい。

そっちはいま何時だろう?――『那邊幾點』

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たとえば『那邊幾點 What time is it there ?(邦題:ふたつの時、ふたりの時間 )』の中で、シャオカンは大きな歩道橋の上で腕時計を売っている。そこへ1人の女(シャンチー)が通りかかり、パリへのひとり旅に備えてデジタル腕時計を買い求め立ち去る。このささいな出会いと別れをきっかけとして、シャオカンの行動は狂い始める。街中の時計という時計を、女が腕時計を持っていったであろうパリの時間に合わせようと奔走するのだ。電気街の店先の置時計、映画館の掛け時計、果ては高層ビルの大時計まで操作するなど、いたたまれない奇行は “ 時 ” の経過とともにエスカレートしていくが、それが何かを進展させたり変化させたりすることは決してない。ましてや “ 時 ” と “ 場所 ” を異にするパリの女に繋がっていくものなどなにもない。確かに、奇遇な出来事と呼べるいくつかの異変が引き起こされはする。たとえばシャオカンの母はパリ時間に合わせられた居間の壁掛け時計を見たことをきっかけとしてさらなる狂気に陥っていくし、シャオカンが見るともなく見ていたテレビ画面のなかの『大人は判ってくれない』(F・トリュフォー)のジャン・ピエール・レオ少年はいきなり初老の男となって、「文字通り時間の中から」※  パリの女の前に出現したりもする。

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※「(オーソン・ウェルズ『市民ケーン』の中のあるシークェンスにおいて)ケーンが、絶交するつもりで友人の新聞記者と再会しに行くとき、彼が移動するのは時間の中であり、(…)別の場所からやってくるというよりは、文字通り時間の中から現れるのである」(ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(06・11、法政大学出版局))

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だが、それらの奇遇は彼らのいくつもの “ 時 ” を交わらせるものとしてはいっさい機能せず、むしろその奇偶さゆえに徹底的な断絶が浮き彫りになってしまう。男と女の人生は腕時計の売買が行われて以降、一度も交わらない。カフェやメトロにおけるパリジャンたちの奇怪かつありふれた視線のまとわりつくような感触や、異国のベッドの上でキスを交わした直後さしたる理由もなく背を向けて眠ってしまう “ 香港 ” などから女を救うことは、シャオカンには絶対にできないのだ。都会のなかの小さな個人の孤独や絶望といったツァイ・ミンリャンの映画に馴染み深いモチーフが、平行線を辿り続ける2人の “ 時 ” によって際立っていく。

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しかも映画はそのままでは終わらない。本当の孤独は最後の最後に待ちうけている。断絶しすれ違い続けた劇中すべての“時”が、実に不可解で不毛で決定的な仕方で捻じり回されながら結合するのだ。

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台北で盗まれたトランクがセーヌ川に流れ着き、そこにいるはずのない男の亡霊が鈍く回転し始める大観覧車へと歩き始めた瞬間、私たちはあらためて理解することになる。台北とパリの不可解な共鳴を目にし続けてきたのは自分たち観客だけであり、当の「ふたりの時」にはあいかわらず孤独と絶望しかないのだということを。無数の断片を連続する何かに偽装しようとする “ 映画 ” のやり口が暴露され、フィルムの孤独がどうしようもなく私たちを不安がらせ戦慄させたところで、この映画は終わる。

消えた歩道橋――『天橋不見了』

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『那邊幾點』を見てから数年後、私は真夏の台北にいて、映画館でツァイ・ミンリャンの日本未公開短編を見る幸運に恵まれた。偶然知り合った友人・郭さんのおかげだった。彼女は市内の大学で日本語を学ぶ才女で、パンフレットの作品解説文をすべて日本語訳してくれた。もっとも、台詞がほとんどなく、また劇中の舞台が『那邊幾點』でシャオカンとシャンチーが出会った場所――私自身も台北滞在中に幾度となく通りかかった交差点――であり、しかも丁寧な英語の副題まで付いたこの作品『天橋不見了 The Skywalk is Gone』(02)の意味するところを理解するのに訳はいらなかったが。それはいうなれば『那邊幾點』のエピローグだった。異邦パリにおいてそうしていたように切羽詰まった表情で慌ただしく歩くシャンチーは、「時計を売っていた男」=シャオカンを探すが、そもそも2人の “ 時 ” が唯一交わったあの歩道橋=天橋があるべきところに存在しない。スクリーンに映ったそこは、ほんの数日前に私自身が突っ立ち、「シャオカンが腕時計をガンガン手すりに打ちつけていたあの歩道橋は、今はもうなくなってしまったのか」と思ったまさにその場所だった。シャンチーはそこを何度も行ったり来たりする。呆然とした表情でひたすらうろつきまわる。彼女にいったい何があったのだろうか、「時計を売っていた男」に何を求めているのだろうか。その心情や事情は知りようがないが、彼女はここが台北という馴染み深い “ 時 ” であり  “ 場所 ” であるということを確かめようとしているのかもしれない。はっきりしているのは、いまさら彼らがどれだけ物理的に接近しようとも「ふたりの時」は重ならないということだ。実際、彼らは肩をぶつけるほど近くですれ違うが、お互いを認識できない。なぜか? その理由もまた、断ち切られて在る“映画”の本質、フィルムの孤独にあるように私には思えた。この映画はもうあの映画ではない。あの映画ではかつて確かに存在した歩道橋も「腕時計を売っていた男」も、まるで最初から“なかったこと”だったかのように、この映画のシャンチーにとっては消えてしまった。2人を翻弄するのは物語でも情緒でもなく、いつでも “ 映画 ” なのだ。

まだ時計を売っているの?――『天邊一』の木漏れ日

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ところがそのさらに数年後、彼らの “ 時 ” を捻じり切ったほかならぬ “ 映画 ” が彼らをあっけなく再会させる、もちろんまったく別の“時”と“場所”で。『天邊一朵雲(邦題:西瓜)』(05)のなかの数少ない穏やかな場面、舞台はゆっくり色と光とかたちを変えていく真夏の緑の公園だ。そこはとても乾いているが、一瞬のうるおいをもたらす水分には事欠かない。木漏れ日を受けて眠る男に向かって、西瓜を拾った女は脈絡なくこう言う――「まだ時計を売っているの?」

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問われてほほ笑むシャオカンの顔を見て、私は「映画ってすごく不自由で、同じくらい自由でいいなあ」と思った。作品にも主体にも物語にも縛られないリー・カンションの彷徨。孤独で不毛で、だからこそ無限の可能性に溢れ、それゆえにまた途方もなく孤独で不毛で――という堂々めぐりから抜け出せない旅路。特に希望はないが、その地続きの広大な世界の至るところに可能性の粒が光り輝いているツァイ・ミンリャンの映画を、これからももっともっと見たい、と思った。

“ おしまい ” の映画、映画の “ おしまい ”――『郊遊』

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『郊遊』は、以上のようなリー・カンションの旅路の終着点のような映画だ。とついそんなことばかり考えてしまう。正直、最後の方は “ おしまい ” の雰囲気が強すぎて、どうしても映画そのものをうまく見つめることができなかった。だからあらためてこの映画とこうして向き合ってみても、残念ながら前回のブログに書いた以上のことは私の中からは出てこない。男はもう、時計を売るのをやめてしまったのだ。

 


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