ツァイ・ミンリャン『郊遊』を見てきました。これを機に、何回かにわけて台湾映画について書こうと思います。

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文・石鍋健太

ツァイ・ミンリャンが「長編映画製作から引退」し、「活動の場を美術館や舞台に移す」らしいと聞いた時、「“ 私の台湾映画史 ” が終わった」と思った。より正確には、ツァイ・ミンリャンの 「引退作」である『郊遊(ピクニック)』(2014)のラストカットで、薄暗い廃墟の一室からリー・カンションが立ち去った瞬間にそれは本当に完全に幕を閉じた。いつもと同じ無音のエンドロールを憤然と睨みつけながら、私は「終わった」と何度も心のなかで呟いていた。

いきなり誤解の種をばら撒きまくってしまったので慌てて補足しておくと、実は私はアン・リー以降の台湾人監督たちの作品を一本も見たことがないので、文字通りの意味では「台湾映画が終わった」などと偉そうに書く資格はないし、実際にはもちろん全然終わってなんかいない。それどころかここ4~5年、新たな才能に恵まれた台湾映画界はこれまでにないほどの活況を呈していると聞く。だから本題に入る前にしつこく断っておきたいのは、今ここに書かれつつあるのは台湾映画の話ではなく、あくまでも “ 私の台湾映画史 ” の話であるということだ。これはいってみれば極私的でセンチメンタルでエモーショナルなレクイエムであり、なんでそんなものを書くのかというと、たぶん私は “ 私の台湾映画史 ” が終わってしまったという事実を、心のなかから引っ張り出して自分自身にあらためてはっきり突きつけたいのだと思う。つまり自分のために書くことになるわけだけど、レクイエムとか追悼文というのはそもそもそういうものなんだろう。「台湾映画」と聞いてジーンと来る方は、もしよければしばしお付き合いください。

エドワード・ヤン 『ヤンヤン夏の思い出』

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“ 私の台湾映画史 ” は00年代初頭、学生時代にエドワード・ヤンの『ヤンヤン夏の思い出』(00)と出会ったことから始まる。華やかでも荘厳でもドラマティックでもない始まりだった。なにしろ映画を映し出したのは映画館のスクリーンではなく、友人宅の古いブラウン管のテレビデオだったのだ。夜中、狭いワンルームで鍋をしながら、たぶん誰かが何となくつけた画面にそれは映った。緑の芝生が小さな画面いっぱいに広がっていて、遠くから結婚式に集まった人々が歩いてくる。ピアノの音の隙間から彼らの声が小さく聴こえる。芝生の両側の舗道沿いに大木が覆いかぶさるように立ち、夏の日差しをさえぎる葉々が斑模様の影を揺らす。私は『ヤンヤン』冒頭のこの場面にいつの間にか釘付けになってしまった。

この時の感動、この時感じたものを言葉で表すのはとても難しい。それは、どこかで見て知っているような気がするのに正体不明で得体の知れないものとの出会いだった。大学の近くに品揃えのよいレンタルビデオ屋があった(いまはもうない)ので、翌日からエドワード・ヤン、ホウ・シャオシェン、ツァイ・ミンリャンらの作品を片っ端から借りて見たところ、毛色の違うどの作品にもやはり同じものを感じ、それが何なのかよくわからないまま見続けた。いま思えば、初めて小津安二郎や清水宏の映画を見たときの感動と似ているかもしれない。決定的に違うのは、小津映画の新作はもう絶対に見られないが、上記3人の監督たちは(その当時は)現役で新たな映画をつくり続けていたということだ。映画そのものに惹かれるだけでなく、それ以上に自分が “ いま生まれつつあるもの ” に立ち会っているということで、私の興奮はさらに高まっていった。そして、台湾映画の出自について調べていくなかで、私はこの “ いま生まれつつある ” こそ台湾映画にとって極めて大事な要素なのだと知ることになる。

映画の誕生と同時に、映画をつくることを禁じられた島

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台湾映画の短すぎる歴史を概観しておこう。

1895年、日清戦争に勝利した日本は台湾を植民地支配するにあたって総督府を置き、重要な機関はすべて日本人がおさえた。台湾人と先住民族の日本人化を推し進めたのである。日本語が公用語と定められ、同化促進のためのメディアとして映画は活用された。台湾におけるはじめての映画とは、台湾人に日本文化や日本語を浸透させるための道具だったのだ。
1945年、日本の敗戦によって台湾は再び中国の版図に復帰する。戦後大陸から台湾へ渡った人々は、国民党の中華民国政府こそ中国全土を代表する正統の政府であると主張し、大陸でつくった法律や制度をそのまま台湾に持ち込んだ。さらに政権の中枢は彼らが独占し、もともと台湾に住んでいた人々の政治参加を制限、台湾語や台湾文化を抑圧した。このような状況の戦後台湾において、それまでの “ 日本映画 ” の代わりにつくられたのは “ 中国映画 ” だった。言葉はすべて北京語で、テーマも国策的なものだったようだ。
台湾語使用への規制が緩くなるのは、ようやく1980年代にはいってからのこと。台湾語や台湾文化を復活させて歴史を掘り起こす機運が高まり、政治面でも中枢部へ台湾人が進出するなど、あらゆる場面で「台湾化」運動がはじまる。

つまり、ほんの30数年前までは、台湾では誰も自分たちの映画を撮ることができなかったのだ。母国語を使えないという制限のもとで、それまでの台湾(でつくられた)映画は “ 日本映画 ” であり “ 中国映画 ” でしかなかった。
しかも、自国の文化と言語が長い間抑圧されたとはいえ、海外留学経験が豊富な戦後世代は世界最先端の芸術活動に触れることができたし、映画館では各国の映画が上映されていた。見られるのにつくれない、という歯がゆい状況がずっと続いてきたのだ。

台湾が日本の植民地となった1895年は、奇しくもリュミエール兄弟がパリでシネマトグラフを始めて上映した年である。以来、世界各地でいくつもの映画が試みられ、いくつもの “ 映画史 ” がそれぞれ独自の発展を遂げた。そして、それらがあらかたそのもっとも熱気にあふれた最盛期を越えた後、1980年代なかばになってようやく、” 台湾映画 ” がスタート地点に立った。映画の誕生と同時に映画をつくることを禁じられた島で、戦後生まれの若い世代の監督たちがついに激情を爆発させたのだ。それがエドワード・ヤンやホウ・シャオシェンらによる台湾ニューシネマであり、続く90年代には、ツァイ・ミンリャンや、後にハリウッドへ歩を進めるアン・リーなど第二次ニューウェーブの監督たちが登場することになる。

■ 私の台湾映画史

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以上のような出自を知って、自分が台湾映画に覚えた「どこかで見て知っているような気がするのに正体不明で得体の知れないもの」という感覚の答えの一端を得たような気がした。それは長年の抑圧を経て産声をあげた、どの系統にも属さない生まれたばかりの世界だったのだ。

以後十数年間、私は ” いま生まれつつあるもの ” に立ち会うという贅沢を味わいながら台湾映画を追いかけ続けた。00年の『ヤンヤン』に始まり、時を遡ってホウ・シャオシェンの『風櫃の少年』(83)や『冬冬の夏休み』(84)を見て自分がもう20年早く生まれなかったことを悔やみつつも、『非情城市』(89)や『クーリンチェ少年殺人事件』(91)に打ちのめされて新文芸座に心から感謝し、その後『河』(97)でツァイ・ミンリャンの凄まじさを知り、『ミレニアム・マンボ』(01)、『珈琲時光』(03)、『ふたつの時、ふたりの時間』(01)、『西瓜』(05)あたりでようやく ” 同時代 ” に追いついたぞ、ここから並走だぞと思い始めたとたん、07年にエドワード・ヤンが亡くなってしまった。私はショックのあまりあのサツマイモ形の島へ行って、ヤンヤン少年がカメラ片手に走り回っていたのと同じ町で写真をたくさん撮ったのだった。振り返ってみればあの時も、「終わってしまった」とつぶやいた気がする。その後はホウ・シャオシェンも、ジュリエット・ビノシュが素敵な『レッド・バルーン』(07)以降新作を撮っていないので、頼みの綱はツァイ・ミンリャンだけだった。その彼が引退宣言をしたことで、” 私の台湾映画史 ” は本当に完全に終わってしまった。その歴史、わずか約12、3年。大正時代とかより短い。

■ 観客を置いて立ち去る2人

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ツァイ・ミンリャン引退の理由は、「利益優先の映画界に背を向け、美術館で表現の可能性を探る」というようなことらしい。仕方ないことだ、それもいい、美術館か、それもまたアリなんだろう。いいんだけどでも、相当自分勝手なことを言うようだけどツァイ・ミンリャンさん、あなたが映画館に背を向けたから、” 私の台湾映画史 ” が終わってしまったんです。ほとんど動かない画面とじっと相対する、あの張りつめた映画体験が私はとても好きでした。私はあなたの『楽日』(03)を、どしゃぶりの雨のなか渋谷に見に行きました。よく覚えています。観客は私の他にあともう1人しかいませんでした。あの映画もまた客の入らない映画館の最後の日の話で、しかも映画の中でもどしゃぶりの雨が降っていました。あなたの描く ” 孤独 ” がたまらなく好きでした。映画館の暗闇のなかでまたあなたの映画を観たかった、美術館とかじゃなくて。

『郊遊』の最後のあの廃墟で、これまで以上に素晴らしい顔をしたリー・カンションとチェン・シャンチーが何も言わずに佇んでいる時、それがあまりにも長い時間だったのでしびれたようになった私の頭のなかには、あるひとつの場面が浮かんでいました。ホウ・シャオシェン監督の80年代の傑作『風櫃の少年』のなかの場面です。たしか、田舎から台北に出てきたばかりの若者たちが、町で変なおじさんに「安く映画を見られる」と騙されてあるビルへ入っていくという経緯だったと思います。彼らが言われた通りの高層階へいってみると、フロアはスケルトン状態、むき出しコンクリートの床と天井と壁と柱があるだけで、まるで映画のスクリーンのような矩形の穴から都会の街が見下ろせるのでした。右も左もわからない若者たちの、あまりにもすがすがしくシャレた映画体験。あれはまさに、生まれたばかりの台湾映画の熱気を象徴するような場面でした。それがいまや、『郊遊』の男女は青い廃墟に立ち尽くし、寒そうにじっと謎の壁画を見つめているではありませんか。やがて2人が立ち去ってしまうと、その壁画と廃墟を見つめ続けるのは私たち観客だけになってしまうのでした。

その瞬間、「終わった」と呟いた観客は、きっと私だけではないと思うのです。数は少ないかもしれないけれど、「” 私の台湾映画史 ” が終わってしまった」と悲しんだ人は他にもいたと思うのです。どうかそこのところをおもんぱかって、もう一度リー・カンションと一緒に映画をつくってくれませんか。

いつの間にか、レクイエムというよりストーカーのラブレターみたいになってきたので、このへんでおしまいにしておきます。

合掌。