ドストエフスキー vol.4 彷徨い続ける『悪霊』

こんにちは、店主の高松です。

ドストエフスキーについて連載で書いているブログも4回目となりました。最終回は、私の一番好きな作品『悪霊』について書こうと思います。
かなり勝手な事を書いております。とりとめもなく、単なるドストエフスキーファン、『悪霊』ファンとしてのブログです。

いままでのブログはこちらになります。

vol.1 出会いと体験
vol.2 死霊と悪霊
vol.3 『カラマーゾフの兄弟』について

アップリンクにて公開中の映画『ドストエフスキーと愛に生きる』のオフィシャルガイドブックの中の、お薦め作品紹介コーナーのところでも、私は『悪霊』について、ほんとに少しですが書いております。当初、お薦めのドストエフスキーの作品について何か書いてほしいというお話を頂いたとき、『カラマーゾフの兄弟』がいいと思いました。また、初めてドストエフスキーを読む人向け、という意味合いなら『罪と罰』かな、とも思いましたが、お薦めという言葉を無視して、単純に私の好きな作品を挙げた結果『悪霊』になりました。また、おそらく『悪霊』を挙げる人はいないのではないか、とも思ったので、ダブらないほうがいいと考え、『悪霊』を推した次第です。

ドストエフスキーと愛に生きるクラリスブックス

▲『ドストエフスキーと愛に生きる』
2014年2月22日(土曜日)、渋谷アップリンク、シネマート六本木ほか全国順次公開

また、『悪霊』繋がりなのですが、KAAT神奈川芸術劇場にて、舞台『悪霊』が公演されます!3月10日のプレビュー公演からはじまり、23日(日)までの公演です。
CHITEN地点(三浦基演出)×KAAT

私も見てきます!その感想などはまたこのブログにて。

舞台の稽古の様子など、ツイッターブログ(『悪霊』特設ブログ)で見る事ができます。とにかく大期待!『悪霊』が舞台でやるんですよ!スタヴローギンは?ピョートルは?キリーロフは?あのシーンこのシーン、一体どのように演じられるの???ほんとにドキドキ。楽しみです!

演劇悪霊クラリスブックス

▲KAAT×地点 共同制作作品第4弾『悪霊』

さて、『悪霊』について。
『悪霊』・・・まずタイトルがかっこいい、おどろおどろしいし、それだけでぞっとする。

ドストエフスキー 悪霊 クラリスブックス

この小説との出会いは、大学生の時に『カラマーゾフの兄弟』を読んで、すぐ続けて読みたいと思っていたのですが、いろいろと他に勉強しなければならず、読んだのは結局大学卒業後でした。といっても、たしか卒業後すぐ読み始めたように思います。

前のブログでも書きましたが、私はドストエフスキーの作品は、『罪と罰』→『カラマーゾフの兄弟』→『悪霊』と読み進めていました。これはほんとにラッキーなことだと思うのですが、私にとっては、ドストエフスキーはそれほど読みづらい作家ではなく、とても取っ付きやすいものでした。なぜかはわかりません、おそらく単に相性がいいのでしょう。少しまどろっこしい言い回しや大げさな表現、細部にこだわりすぎて遅々として進まない描写などなど、すごく読みやすいのです。基本的にそれほど本をたくさん読むわけではない私としては、相性のいい作家がドストエフスキーというのは、とても運のいいことでした。

ということで、この『悪霊』もかなり一気に読んでしまったように思います。大学卒業後、就職せずにフリーターをしていたということもあり、お金はありませんでしたが時間だけはありました。そんな環境もあって、どどどーっと一気に読むことができたのでした。

『悪霊』にはニコライ・スタヴローギンという“巨人”が登場しますが、この作品は彼一人だけの物語ではなく、そこにはさまざまな登場人物が、彼の周りを惑星や衛星、彗星のように飛び交っていて、そしてそれぞれの重力によって互いに影響しあいながら、そして時には衝突を繰り返し、ある者はこなごなになり、ある者はその衝突の傷跡を残しつつ、物語は最終局面へと突き進みます。

この作品の魅力の一つは、太陽(いや、ブラックホール?)であるスタヴローギン、そしてその周りを彷徨う星々が織りなす対話にあると思います。私の好きなシーンの一つ、スタヴローギンがキリーロフの所を訪ねる場面、第二部第一章「夜」は、いまにも超新星爆発が起こりそうなギリギリの状態のところに、これまた巨大なブラックホールが、その超新星もろとも飲み込んでしまうのではないかと思われるほどの力、それは10の何十乗にもなる超巨大な力がぶつかって繰り広げられる神秘的で劇的な天体ショーの瞬間をスローモーションで描いているかのようで、宇宙の冷たい真空状態の描写が、却って叙情的な印象すら我々読者に与えている、とても美しい場面です。

そのような、いわば少し突拍子もないシーンは、最終的には『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の場面で頂点を極めるのでは、と思います。

前日、大量に異端を公開処刑したその興奮冷めやらぬ老大審問官が、突如復活したイエスを捕まえて独房に押し入れ、そこでイエスに問いただす、「なぜ来たのだ」。そしてそこから続く大審問官の独壇場をただじっと聞いているイエス。信仰と神、現実と人間。そのテーマはそのまますっかり反転すると、『悪霊』の主要テーマに。不信と悪魔、理想と超人。

突発的に熱くなったり、そして急激に冷え込んだり、しかもそれらが同時に混ざり合いながら、だが中和することなく物語が突き進む、音楽で言えばバッハに代表される多声楽の手法、それはただ登場人物が多数いるというだけでも、それらがさまざまな思想を持っているからでもなく、物語のなかに自然と溶け込んでいて、その会話と会話の間にそれぞれが独立して浮かび上がる手法なのだと思います。「大審問官」の話は、酒場で兄イワンがその弟アレクセイに語るという形をとっています。つまり“お酒の場で”の話。この、ちょっと考えると不思議な設定、しかしよくよく考えれば、新宿や下北沢の居酒屋で誰もが同じ事を毎夜毎夜繰り広げていることなのです。

さて、ちょっと話がそれてしまったので、『悪霊』の好きなシーンについて。

少し引用してみます。

スタヴローギン「きみ、子供は好きですか?」
「好きです」とキリーロフは答えたが、かなり気のない調子だった。
「じゃ、人生も好きですね?」
「ええ、人生も好きですよ、それがどうしました?」
「ピストル自殺を決意していても?」
「いいでしょう?なぜいっしょにするんです?人生は人生、あれはあれですよ。生は存在するけれど、死なんてまるでありゃしません」
(新潮文庫 江川卓訳より)

キリーロフは、同じアパートに住んでいる老婆と赤ちゃんの為にサモワールでお湯を涌かしてあげたり、ボール遊びをして赤ちゃんを喜ばせたりしています。そんな中スタヴローギンが訪ねる。そのどこか牧歌的な、絵本の世界のような場面に登場するスタヴローギン。その極端なまでの対比、侘しい部屋の中に、そこに似つかわしくないほどの豪華なピストルをいくつも所有しているキリーロフ。場面設定といい、二人の会話といい、人間の真に迫った素晴らしいシーンだと私は思っています。

『悪霊』で忘れてはいけないのがピョートルです。もう一つだけ好きなシーンについて。それはピョートル、そしてスタヴローギン登場のシーンです。

春の嵐のようなピョートル。ずっとずっとしゃべっています。すさまじい勢い。しかしそれでいてその口から出る言葉には周囲の人間を引きつける魅力、引きつけられてしまう魔力があって、結果的にそのおしゃべりピョートルは、この物語全体の牽引役でもあるのです。そのおしゃべりによって周囲の人間はあたふたし、ほとんど口からでまかせのその言葉に魅了され、同時に恐怖する。前世代のインテリ、ステパン氏を父に持つ彼には、ロシア的なものを愛する気持ちなど毛頭なく、あるのは征服欲、支配欲。しかしそこが面白いのですが、そのような人間を、ドストエフスキーは、ジッと構えて物事を判断し、慎重に事を運び、時には勢いよく犯罪的行為すら自ら実行に移すような人間として描くのではなく、言ってみれば単なるおしゃべり男として、一見愛嬌のある青年として描いているのです。しかしそのおしゃべりがあまりにも強烈で、どこか新興宗教の宣伝マンのような雰囲気すらあるピョートルは、単なるバカなおしゃべり好きな男ではなく、実はそれらすべてが彼の右脳的直感力によって、計画され、考えられていることなのです。

スタヴローギンが来たと思ったら、ハンサムな彼とは似ても似つかない、“醜男ではないけれど・・・”という表現が似合うピョートルがさっそうと皆が待ち構える部屋に入ってくる。そしていきなりしゃべりまくる。そして、そのおしゃべりピョートル登場の混乱の最中、いつの間にかニコライ・スタヴローギンは部屋の片隅に立っていた・・・そのピョートルの強烈な登場シーンがあるからこそ、不気味に何も言わず、ただそこにいるだけで強烈な存在感を残す貴公子ニコライ・スタヴローギンが、さらに輝くのでした。

新潮世界文学ドストエフスキー クラリスブックス

▲「新潮世界文学13 ドストエフスキー4 悪霊」

150年近く前に書かれた『悪霊』は、“予言の書”とも言われてきました。それは、その後引き起こるロシア革命、二つの世界大戦、その後も世界各地で起こった革命と戦争。宗教や政治思想という名の下に引き起こされた数多くの事件などなど、それらの種がこの小説の中に描かれていると言われているからです。
実際その通りだと思います。

この小説は当初、革命運動に加わったことでシベリア送りになった作者が、私はもうそのような思想を持ってはいませんよ、と当局に伝えたいという理由もあって書き進められたという面もありましたが、そこにスタヴローギンという巨人を登場させたことで、一気により根源的な内容にまで押し深めらました。

この小説は、実際不気味な内容だと思います。主要登場人物のほとんどが死にます。しかもその死は悲惨なものばかり。その描写力にはすさまじいものがあります。『罪と罰』でラスコーリニコフが老婆を斧で殺害するシーンもそうですが、生々しく描きつつ、殺す側と殺される側の対比によって、より一層引き立つ心理描写、あたかも我々読者が当事者のどちらかになってしまったかのような錯覚すら覚えるほどの筆致。『悪霊』でも物語終盤、キリーロフとピョートルが展開する対話にその描写力のすさまじさが現れています。極限の極限にまで追い込まれた者と、その逆の追い込んだ者。この小説の中で、私が最も恐ろしいシーンと考える場面です。
一見するとかなり陰惨な内容だし、『罪と罰』のような、どこか遠くに希望の光が見えるような物語でもありません。しかしこの作品こそ、常に現代性を持っていると私は思います。人間は二人いれば必ず争います。他人を蹴落として自分だけが助かろうとします。その結果が、人類の歴史が始まって以来、ずっと続いている戦争です。まるで人間の存在理由が戦争という殺し合いをすることのようでもあります。理想ばかりを追求せず、どかんと現実を見せられる、しかも極端にデフォルメされた、まるで地獄絵図のような現実。
ドストエフスキーの作品中、もっとも恐ろしく、そしてもっとも考えさせられる作品、それが『悪霊』です。だから今こそ!読んでもらいたい作品です。

なんだかとりとめも無く長々とドストエフスキー、『悪霊』について書いてきましたが、好きな作家、好きな作品については、ずっと考えていきたいし、これからもこのブログで何か書いていければ、と思っております。また、5月の連休明けの読書会では、ドストエフスキーの『罪と罰』を取り上げる予定です。ご興味ございましたら、どうぞご参加下さい。よろしくお願いいたします。

高松

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