クラリスブックス店主の高松です。
5月1日に当店にて読書会を開催いたしました。課題図書は、カズオ・イシグロの短篇集『夜想曲集』、今回も多くの方にご参加いただきました。誠にありがとうございました。
カズオ・イシグロと言えば、『わたしを離さないで』『日の名残り』が特に有名で、昨年2015年には新作『忘れられた巨人』を出版した、世界的にもとても人気の作家です。あえて短篇集であるこの『夜想曲集』を選んだのは、そんな大それた理由はなく、単純に読みやすいかな、と思ったからです。また、私高松がいままでカズオ・イシグロの作品を読んだことがなかったので、短篇の方がとっつきやすいかな、と思い、選びました。
私の周りにはカズオ・イシグロの作品を好きな人が多く、特に『わたしを離さないで』は映画も出来がいいようで、よく勧められます。
今回この『夜想曲集』を読んで、カズオ・イシグロってこういう作品を描く人なんだ、と思ってしまいましたが、他の作品をいろいろ読んでいる方に言わせると、『夜想曲集』はちょっと異色の作品で、他の作品とは赴きが違うとのこと。私はこの作品は楽しく読むことができて、いろいろと考えさせられるところもありました。しかし、今回の読書会では、ちょっと苦手、あまり好きじゃない、やはり『わたしを離さないで』や『日の名残り』のほうがいい、という意見も多く出ました。一方、ものすごく面白かった、大爆笑した、という方もいらして、店主の私としては、そういった意味では、とても充実した読書会になったと思いました。
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『夜想曲集』は、『老歌手』『降っても晴れても』『モールバンヒルズ』『夜想曲』『チェリスト』の5つの短篇で構成されています。共通する人物がずっと登場することなく、それぞれ個別の作品なのですが、この作品の副題に「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」とあるように、音楽、そして夕暮れがキーワードとなっています。それらはおそらくなにかの象徴で、登場人物の人生や生き方、考え方を表しているのかもしれません。
どの作品とも個性的ですが、特に『降っても晴れても』と『夜想曲』は、ドタバタ喜劇さながら、読んでいてクスクスどころか、思わず声を出して笑ってしまうくらい。そうかと思うと最後の『チェリスト』は、少ししんみりとした作風で、ミステリアスな女性の登場は、他の短篇にはない雰囲気をこの小品に醸し出しているように思えます。
それぞれの作品が一つになって、大きな交響曲を形作っているようにも考えられますが、どうもそこまで造り込んではいないのでは、という気もします。だいたいの作品が物語の着地点をあやふやにしていて、読者からすると、少しもどかしい気もしないでもありませんが、しかしそれはそれで心地よいようにも私には思えました。
『夜想曲』で顔を美容整形していた主人公は、結局どういう顔になったのか、『チェリスト』に登場する、“巨匠”の女性は、一体何者なのか、などなど。私には、着地点をあやふやにしたほうが、特にこの短篇集にあっては、むしろいいのではないかと思えます。
全三巻の分厚い小説で、延々いろいろな出来事が起こって、結局うやむやで終わるというのはさすがに消化不良感満載になりますが、短篇集は、我々読者に考えさせる為の余白を設けてあるくらいがちょうどいいのでは、と思いました。
また、やはり外国文学を取り上げたので、訳についても話題になりました。
基本的には、読みやすくていい訳じゃないか、という意見が多かったように思えますが、一方、女性の言葉をことさらに女性っぽくしすぎているのでは、最初の物語の『老歌手』の老人の一人称が「わし」というのは、ちょっと古すぎないか、という話も出ました。物語をスムーズに、そして読者に分かりやすく伝える、という意味ではそのような言い回しでいいようにも思えますが、しかし英語では、日本語のように「〜だわ」とか「〜なのよ」とか「〜よ」のような表現はないし、一人称も「I」だけ。しかしだからといって、すべての「I」を「私」にしてしまっては、やはりおかしい。そして、どうしても日本語では女性っぽさ、男性っぽさというものが言葉にも現れてしまう。そのバランスは実に難しく、かなり根源的な問題なんだと思いました。
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ともかく、今回の読書会では実にいろいろな意見が出て、とても充実した会になりました。やみくもに自分の意見だけを押し通すのではなく、考えの違う意見も取り入れ、それによってお互いより理解が深まる、なんだかそんな、ある意味理想的な読書会だったようにも思えます。
このご報告ブログでは、私の力不足で、なかなかその場のライブ感のようなものを表現できず、なんとももどかしい限りですが、プラトンの言葉にもあるように、重要なのは、書かれたものより、その場その場の対話、というわけで、簡単なご報告であること、どうぞご了承ください。
クラリスブックス 高松
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