クラリスブックス店主の高松です。
10月11日の日曜日に当店にて読書会を開催いたしました。
課題図書は、ソポクレスの『オイディプス王』。ギリシア悲劇作品の中でも傑作中の傑作と言われ、古代より延々と演じられ、そして読み継がれてきた名作です。ご参加いただきました皆様、誠にありがとうございました。
私は大学の頃ギリシア哲学を勉強していました。その関係から、ギリシア悲劇やギリシア神話も多少は読んでおりました。特にこの作品にはいろいろな思い入れがあり、今回読書会で取り上げたのは、その面白さ、内容の深さを皆と共有したいと前々から思っていたからで、ようやく今回実現したのでした。
やはり古典中の古典だけあって、皆様からはいろいろな意見や感想がありました。日本の神話との関連性、ストーリー展開の巧さ、構成力の素晴らしさなどなど。
この作品、『オイディプス王』は、ギリシア神話に登場する、いわゆるオイディプス神話を元に、作者ソポクレスが作り上げた劇作品ですが、ストーリーを知っている人が再読しても、そしてもちろん初めて読んだ人も楽しめる傑作に仕上がっています。
真実は目の前に存在しているにもかかわらず、それを覆い隠して、少しずつその核心に迫る緊迫感。結果的にその真実は全く新しい世界の発見などではなく、実は自分自身の発見であり、同じものを表からではなく、ただ単に裏から眺めただけにすぎない、まさにその劇的な転回が、悲劇をさらに深いものにするという物語としての構成、それはほとんど、“人間が作り上げた話とは思えない”、というくらいの完成度で、およそそれ以降の全ての劇作品から文学、そしてテレビの2時間メロドラマにいたるまで、影響を受けていないものを探すのが難しいと思えるほど。
登場人物もごく僅かですが、それぞれの台詞の中に巧みに舞台設定を述べさせることによって、違和感無く物語りが進行するようになっている構成。そして、意味深な内容の旋舞歌が要所要所に挿入され、実はそこには物語の様々な事実が謳い上げられているという演出。死すべき子らである人間と、その生き死にを左右する不死なるものどもである神々、そしてそれらすべてを覆い尽くす運命によって、実はその世界には完全なる秩序(コスモス)が存在している、このギリシア人の世界観が生み出したギリシア神話は、おそらく人類すべての宝であると思いますが、そこからソポクレスという天才が紡ぎ出したこの『オイディプス王』は、後世フロイトがエディプス・コンプレックスという言葉によって人間の深層心理を表現したように、人間の根源的な何かを汲み上げているのではないかと思います。
外国の作品を扱うときに常に読書会で話題となるのが訳の問題です。読みやすいか読みにくいか、いい訳か悪い訳かなどなど。原典を直接窺い知るのが難しい場合、素人としてはあまり大きなことを言うことはできませんが、この岩波文庫の藤沢令夫訳は素晴らしく、昭和42年(1967年)初版以来、改訳されることなく、2015年現在もこの版でそのまま出版されているというのも頷ける事実だと思いました。
この岩波文庫の解説のところで、古典学者や考古学者、美術家など、およそすべての専門家が総動員された、1881年ハーバード大学での完全復元上演のことが書いてあり、とても興味深かったです。
「千人の観客が最初から最後まで、呪縛されたごとくに魅せられて動かず、劇が終るや、一瞬の深い沈黙ののち、劇場は爆発的な歓声と拍手にどよめいたが、しかしすぐにまた、あたかも神聖な何ものかを乱すのを恐れるかのように声は突如やんで、観客は静粛の支配のうちに立ち去った。そこでは、「悲劇とはあわれみと恐れをひき起こすことによって、この種の諸感情の浄化(カタルシス)を達成するものである」という、さまざまの論議をよんだアリストテレスの「悲劇」の定義が、期せずしてそのまま現実のものとなったと言われている」
『オイディプス王』岩波文庫 藤沢令夫訳 昭和47年 第8刷発行より引用
悲劇(トラゴーディア、山羊の鳴き声、悲鳴から由来すると言われている言葉)とは一体何なのか、そして演劇とは。今回の読書会でもこのことは特に話に上がりました。古代ギリシアでは、市民が演じ、裏方に回り、そして観客としてその公演に参加するというのが一種の義務で、それによって一体感が広がり、そのことによって、社会の秩序や安定を計ったのではないか、そしてその上演作品が悲劇的であればあるほど、その一体感はより一層深まるのではないか、などと皆で考えましたが、それ以上のことは専門書を読まないと分からないかもしれません。ただ言えることは、現在でも、例えば映画と演劇で決定的に異なるのはその一体感だと思います。映画はただ流れているだけで、観客全員が寝ていても、割れんばかりの拍手喝采が起こっても、常に変わることなく上映されつづけますが、演劇は観客の反応によって、演じる側も敏感に反応し、そしておそらく演技にも影響されるでしょう。そこには一方通行ではなく、双方向の道が存在し、そのライブ感によって、見る側見られる側が一つにまとまる空間が形作られます。古代ギリシアの人々が演劇、そして悲劇を重要視したのは、そのような一体感を生み出す場がそこに存在するからなのかもしれません。
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およそ2500年以上前の作品を扱ったため、読書会では、昔のものを残すにはどうすればいいのか、そしてなぜ残ったのか、なぜ残らないのかなどという話になりました。この『オイディプス王』は、当時演劇大会が行なわれ、第2位だったそうですが、1位を取ったピロクレスなる人物は、アイスキュロスの甥であるという事以外、その作品も何も残っていません。『オイディプス王』以上の作品が存在するのか、というのも驚きですが、しかし結局文献にも何も残っていないということを考えると、まさにその当時の一瞬の流行、いわゆる一発屋的な作品だったのかも、などと想像してしまいます。
古本屋という、多少なりとも古いものを取り扱っている人間としては、いくらデジタルデータでさまざまなものが保存されているとしても、それらは電気がなければ読み込めないし、そもそも表示する画面や、再生・入力するさまざまな機器を必要とします。そんなことをぼんやり考えると、本という形で残すということは結構重要なことなのでは、と思いました。
話が逸れましたが・・・古典は読みにくく難しいのでは、と思われがちで、確かにそういう面はあると思いますが、しかしふと考えてみると、2500年間ずっと読まれ続けてきたわけだから、昔の作品というよりも、むしろ最も現代的な作品だと考えられないでしょうか。なぜなら人間の本質が変わらない以上、誰が読んでも、昔の人でも今の人でも、未来の人が読んでも常に面白く、人々を感動させる何かがそこには存在する、だからこそ古典と言われるのだと思います。
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