こんにちは、店主の高松です。
6月7日、当店にて読書会を開催しました。課題図書は谷崎潤一郎の『春琴抄』。今年2015年は谷崎潤一郎没後50年という節目の年ということもあり、また、私がいままで一度も谷崎作品を読んだことがなかったので、ちょうどいい機会だと思って取り上げました。
谷崎潤一郎の作品の中で一番有名なものは『細雪』かもしれませんが、こちらは長篇なので、なるべく短いもののほうが読みやすいと思い、『刺青』『瘋癲老人日記』『陰翳礼讃』なども候補に上がりましたが、スタッフと相談した結果、『春琴抄』にしたのでした。
今回の読書会はとても人気があり、定員の10名はあっという間に埋まってしまいました。ご参加いただきました皆様、誠にありがとうございました。
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さて、ページをめくるとなんだか漢字ばかりだし、段落も見当たらない、いったいこれは・・・?なんだか面倒だな〜と思ってしまいましたが、なぜか、自分でもどういうわけか全くわからないけれど、だんだんと読めてくる。初めて見る漢字がたくさん出てくるので、意味もよくわからないからスラスラ読めるわけではないのですが、句読点のない、連続した文章など、読み進めていくうちにほとんど気にならなくなり、これは谷崎潤一郎という天才のなせる技なのだと思いました。
流れるような美しい文体、恐らく我々が一生かかっても一文すら完成させることができないであろう文章がスラスラと緩急をつけて綴られていく・・・なんとなく漠然と、日本語って面白いな、と思いました。
最初読みづらいけど、読み進むうちにだんだんスラスラと読めるようになっていく、という感想をお持ちの方はけっこういらっしゃいました。私のように、初めて読んだ方ももちろんいらっしゃいましたが、やはり有名な作品の為、過去に読んだことがあり、この読書会をきっかけに再読された方もいらっしゃいました。
この小説は、実際に起こったことや実在した人物を取り上げた、ドキュメンタリーというか、ノンフィクション的な作りになっていますが、完全なフィクションで、徹底的に作り込まれた短篇小説です。この作品は昭和8年(1933年)、谷崎潤一郎が48歳の時のもので、『春琴抄』の時代設定は明治時代だから、40〜50年前の話として作り上げたことになります。昭和8年当時としてもかなり古風な表現が多様され、それがよりいっそうルポルタージュ的な雰囲気を醸し出しているように思います。また、理路整然とした、とても論理的な文章が貫かれ、そういった考え抜かれた表現方法により、よりこの物語に真実味を出しているように思えます。
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当店のスタッフの石鍋が大学の時に谷崎潤一郎を研究していたということもあり、分かりやすい略年表を作ってもらって、参加者に配りました。「怪奇・幻想」「異国趣味」など、いろいろなキーワードを太文字で記してくれたのですが、この作品では、「マゾヒズム」というキーワードが特にひっかかります。
結果的に良かったと思いますが、私はこの作品を初めて読みまして、しかもあまり谷崎潤一郎について知らなかったので、ほとんどまっさらな状態で読むことができました。いろいろと有名なシーンがあるようでしたが、私はそういったことも全く知らずに読み進めることができました。
まさかこんな痛そうな小説とは思ってもみませんでした。
「春」「琴」などというタイトルからして、舞台は京都か東京の下町などで、琴の世界に入った少女が頑張って有名になって、結婚して幸せになって、みたいな、単純な物語かな〜と思っていたのですが・・・
(カバー裏の内容を記した文も読まずに)
主人公春琴が失明したときは、え〜、失明しちゃった、どうするんだよ。それでも頑張る!みたいな感じの小説かぁ〜ふ〜ん、と思ったものでした。
(そのときの衝撃は、映画『マトリックス レボリューションズ』で、主人公ネオの目がつぶされてしまったときと同じくらいのものでした)
しかし、失明した春琴が弟子の佐助に冷たく、というより強くあたるようになり、しまいには暴力をふるって、しかも棒など使ってだんだんエスカレートしていく様は、入りたくなくてもその場面場面に感情移入してしまうような、とても強烈な吸引力があり、そのような展開に、私は一気に物語に引き込まれました。
ただやはり、春琴が佐助を痛めつける様子は、一体なんなんだこの小説は、という感じで、気持ち悪いな〜という、とても陳腐な感想しかなく、しかしそれでも読み進めることができたのは、やはりこの文体のおかげかも、と思います。さらに、佐助が自分の目を自ら潰す描写に至っては、マゾヒズムの極地を描ききった感があって、むしろ清々しかったです。
マゾヒズムと対になるのはサディズムで、マゾが痛めつけられる方で、サドが痛めつける方ですけど、参加者の方が言われていましたが、サディズムの「S」はスレイブ=奴隷の「S」で、マゾヒズムの「M」はマスター=ご主人様の「M」でもある・・・私はその話にとても納得して、この小説の春琴と佐助の複雑な関係が、この「S」と「M」の関係に凝縮されているように思いました。
佐助があそこまで頑張らなければ、春琴という存在は成立しえないわけで、佐助が「そんなことやってられるか〜」などと言って逃げてしまえば、春琴は単なる意地の悪い琴の師匠にすぎず、さらによくよく考えてみると、お風呂はもちろんトイレの世話すらも佐助がしているというのは、春琴からしても、よほど佐助を信頼していないとさせないはずで、そう考えると、どちらも「S」であり、また同時に「M」なのではないか、「S」と「M」という関係すら通り越した、二人の間に超越的な繋がりを感じざるを得ません。
物語前半、かなり早い時期に春琴に赤ちゃんができますが、あやふやな二人の関係はそのままにしつつ、赤ちゃんができた、という事実だけが突如表明される、、、赤ちゃんができるためには、男女がお互い能動的に、少なくとも男性側は特に能動的な行動と、肉体的な変化を必要とするのであって、読者に想像力だけ膨らまさせられるこのストーリー展開、こんな短篇なのにもりだくさんの内容に、正直驚きました。
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参加者の皆さんが全員私のような感想を持っているわけではなく、文章は素晴らしいけど、話はまあ、普通かな、という方もいれば、とにかくエロい!という方も。
先ほどの赤ちゃんのところのように、具体的なことなど全く描かずに、エロさをここまで表現できるのは、ほんとにすごい、など。
あるいはそういう観点ではなく、とても映画的な小説だという指摘もあり、確かにそのまま映画になるな〜と思いました。そして実際映像化されたことはあったようです。さらに、昔アニメにもなっている、とか。
映画的ということに関して言えば、石鍋の作った年表にもあるように、谷崎は、当時活動写真にとても興味を示して、実際作品を作ったようです。残念ながらフィルムはすべて焼けてしまって現存していません。文学者として、最初に活動写真に触れることのできた世代で、少し前の世代、漱石や鴎外にはない感覚なのかもしれません。
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この作品にはいろいろなメタファーがあるようで、参加者の方の指摘がありましたが、カゴに入っている雲雀(ひばり)は春琴なのかも、そして物語後半にその雲雀が外に飛び出して戻ってこないのは、春琴は心の奥ではどこか全く違う世界に行きたいのかも、盲目の世界から抜け出したいと願っているのかも、とも解釈できるのでは、という話もありました。また、盲目ということと、谷崎がプラトンのイデア論の影響を受けていたということで、私は有名なプラトンの洞窟のたとえを思い出しました。
洞窟のたとえはとてもやっかいで難しいものですが、そこでは燦々と光り輝く太陽が出てきますが、太陽は直視することはできず、その太陽の光によってできた影のみを人間は見ることができる、それが現実界で、イデア界は見ることはできないのだよ、などといったようなことがソクラテスの口から語られるのですが、佐助が、自らの光を閉じて師匠の世界に飛び込む様は、なんとなくイデア界への憧れの象徴のような描写に私は感じました。
なんだかまとまりのないだらだらとした文章になってしまいました。申し訳ありません。
今回の読書会では、私は特に日本語の楽しさ、面白さといったようなものを感じることができました。以前『徒然草』を取り上げた時にも感じたことですが、日本語は、漢字がものすごく大量にあり、さらにひらがなも五十音あるので、他の言語よりも文字数が多く、結果的に実にいろいろな表現をすることができる言葉だと思います。『春琴抄』は、その日本語特有の表現の幅の広さと面白さ、そして奥深さが特に際立っている作品だと思いました。
クラリスブックス 高松
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