孤独のグルメ

文・石鍋健太

■ SF、といっても食べ物の話

先日、“ 町のおそば屋さん ” という感じのそば屋でそばを食べていたら、厨房から怒鳴り声が聴こえてきた。そこは家族経営の老舗で、発端はどうやら大将のやり方に息子がケチをつけたことだったらしい。しばらく小声の言い合いが続いた後、客席にまでクッキリ聞こえる「仕方なく継いでやるんだ」で本格的な戦いの口火が切られた。大声の「そんなら出てけ」に「ああそうするよ」が続き、2人を必死で止めるおかみさんの声も入り乱れて収拾がつかない罵倒の応酬に突入、ついにはパートのおばちゃんがホールに登場し、客席全体に向かって平謝りする事態にまでなったのだった。その時店内にお客は自分も含めて56人いて、みるかぎり気分を害したような表情の人はおらず、空気が凍りついたりとかもぜんぜんしていなかったと思う。少なくとも私に関していえば、喧嘩の声が聴こえてきても平気で食事を続けることができた。とらやの茶の間での騒動のような爽快さはもちろん皆無だし飛び交う言葉はとても生々しかったけれど、食欲が減退するほどじゃない。「いろいろ大変だよな、がんばってほしいな」くらいに思いつつそばをすすっているうち無事おなかいっぱいになった。

たぶん重要なのはパワーバランスで、これがたとえば完全に息子の優勢でほとんどイジメに近いような言い争いだったら、そばは一本たりとも喉を通らなかっただろう。一方的に罵倒される父、理不尽に叱られるバイト、パートのおばちゃんに馬鹿にされるパートのおばちゃん。そういう哀しいやつを食事中に目の前でみせられると、食べ物がとてつもなくまずくなりふざけんなって思う。

そんなことを考えているうちに久住昌之×谷口ジローの漫画「孤独のグルメ」にまさにそんなエピソードがあったことを思い出し、久々に本を開いたらおもしろくて結局ぜんぶ読み返してしまった。

孤独のグルメ

▲ 「ものを食べるときはね・・・」の台詞もよいけど、「こういうのでいいんだよ」も名言だった「東京都板橋区大山町のハンバーグ・ランチ」の回

食べる時、人は食べ物だけを食べるわけではないよなあ、と思う。食事に臨む時の体調や気分、天気、いっしょに食べる人のこと、店の明るさ、匂い、接客、周りで巻き起こる出来事、その他いろいろによって感じ方はぜんぜん変わるし、意識するしないにかかわらず、ネットや雑誌や口コミの情報も目や耳から体のなかにどんどん入ってくる。あらゆる食べ物には、その時その食べ物にまつわる無数の要素がひっついていて絶対にはがせない。

情報や状況に左右されながらも、食べ物そのものの力がそれらを振り切って心に響いてくることもたくさんある。が、考えをめぐらせてみておもしろいのは、情報や状況が食べ物をその実力以上の「すごくおいしい」高みにまで引き上げたり、実力以下の「まずい」「ひどい」「紙食ってるみたい」まで突き落したりするケースの方だ。私はいつからか、それ自体以外の何かのおかげで異様にうまくなったりまずくなったりする食べ物や食事体験を指して「シチュエーション・フード」、略して「SF」と呼ぶようになった。

たとえば分かりやすくて他人にも伝わりやすいSFに、お酒を飲んだ後のラーメン、学校帰りの路地に漂う焼き魚の匂い、文化祭のカレー、などがある。個人的には、登山後の温泉でのビールや旅先の民宿の朝食などは、確実に楽しめる手堅いSFとして全面的に信頼している。以前、謎の腸炎にかかって入院した際には、まる一週間にわたる絶食を経た後におかゆと「しお」と記された小袋が出て、この塩の味が嬉しすぎて泣きそうになり、なんともシュールで感動的なSF体験として記憶に刻みつけられた。

もちろん、日に23度と重ねられていく食事がすべてこうした「うまい」SFであるはずはなく、時にはそのまま「サイエンス・フィクション」と読み替えたくなるような未知との遭遇をはたすこともあるし、あえて冒険してやばそうな定食屋とかの暖簾をくぐり、うまいとかうまくないとかそういうことを超越したハードコアSFの世界に自ら迷い込んでいく日もある。先に言及した「パートのおばちゃんに馬鹿にされるパートのおばちゃん」をみながら食べるうどんなど、悲哀に満ちたSFも少なくない。それはそれでいい。というか、こうして思い出化・エピソード化することで何か救われた感じがする。もちろん救われたのはパートのおばちゃんではなく哀しい思いをさせられた私自身の方であって、しかも「救われる」というより「気が済む」といった方が正確なのでかなり自分勝手な話なのだが。

■ この一列トマトよ

ところで漫画や映画の世界では、数多くの印象的なSFシーンが描かれてきた。先に言及した「孤独のグルメ」はまさに超上質なSF短篇集であり、焼き肉を食べながらの主人公の台詞「うおォン 俺はまるで人間火力発電所だ」や、地下鉄の車内で「何を食おうか」という自問に完璧な答えを得た瞬間の表情などは震えるほどいい。

孤独のグルメ

この「完璧な答え」だったはずの店が閉店してしまっているのがまたいい

ほかにも「あしたのジョー」の紀ちゃんがつくったトマトのサンドウィッチやマンモス西がこっそり食べてしまう屋台のうどん、黒田硫黄の短篇「西遊記を読む」の読書会で大学教授と女が食べまくる中華料理など、チラッと本棚の漫画ゾーンの背表紙を眺めただけでもどんどん出てくる。この点、やはり紙の本はいいなと思う。電子書籍にない紙の質感とかページをめくる快感とかじゃなくて、私は本の魅力はなにより“本棚に並んだ背表紙の存在感”にあると思う。

あしたのジョー うどん野郎

▲ うまそうにうどんを食べるうどん野郎

あしたのジョー 紀ちゃん

▲ 紀ちゃん・・・

あしたのジョー うどん野郎

▲ もう一回、うどん野郎

黒田硫黄 西遊記

▲ 黒田硫黄の短篇「西遊記を読む」 このトビラページすごくわくわくする

黒田硫黄 西遊記

▲ 会話が素敵。これをきっかけに、岩波文庫(赤)の「西遊記」全10巻にチャレンジしてがんばって7巻まで読んでおもしろかったんだけど挫折した

■ ビッグ・カフナ・バーガー?試してみてもいいか

さて、映画だとやはり筆頭は「幸せの黄色いハンカチ」だろうか。出所したばかりの高倉健が食堂でとるしょうゆラーメンとかつ丼とビールは趣深いSFとしてあまりに有名だ。映画じゃなくてドラマだけど、「北の国から」の“子どもがまだ食ってるでしょうがラーメン”と合わせて日本二大SFといっていいだろう。宮崎駿監督作品におけるあらゆる食事シーンについてはもはや語りつくされた感があって、言及するだに恥ずかしいほど万人に愛されるSF大作である。

高倉健

高倉健

▲ 調理場からの音と煙もいい

子どもがまだ食ってるでしょうが

▲ “ 子どもがまだ食ってるでしょうがラーメン ”

こうして考えてみると、どうも印象的なSFシーンは日本映画に多い気がする。私の場合海外の映画でパッと思い浮かんだSFは、「パルプフィクション」でサミュエル・L・ジャクソンがハンバーガーにかぶりつくシーンくらいのものだった。

パルプフィクション

▲ This is a tasty bargur.

パルプフィクション

▲ 「こいつをスプライトで流し込んでいいか」

パルプフィクション

▲ 数分後にぶっ殺されるかわいそうな兄さん。このシーン何度みたことか・・・

このように人それぞれに異なるSF体験を列挙するのは、なかなか楽しい。SFは、というかSFという概念をあえて設けてごちゃごちゃ考えることは、食べることの楽しみを広げてくれる。それ以上に、食べることの哀しみを癒してくれる。イヤな思いをしたイヤな場面を、なんとなく本に書いてあったことみたいにしてくれる。一日23食として、1年でおよそ1000食。30年で3万食。人生で体験できる食事の回数は決まってはいないが限界はある。願わくば、残りの人生もなるべく楽しいSF体験を積み重ねたいものだ。

 

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