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文・石鍋健太

子どもの頃、テレビアニメの登場人物たちの記憶喪失っぷりに憤りと不信感を覚えることがよくあった。

「つい先週の体験を覚えていたら、そんなことは言えないはずだ」「君たちはあの映画での大冒険を忘れてしまったのか」「こいつらってばまた同じことやってる、バカか?」などなど。

長じるにつれ、登場人物が永久に年をとらないいわゆる “ サザエさん時空 ” という方便を知ったが、理解はできても納得はできなかった。逆に理解すればするほど、テレビ画面のなかを右往左往する登場人物たちへの苛立ちはつのった。なぜ誰も永遠のループに絶望しないのか、世界の理に抗い時空を超えようとする猛者はいないのか。中学生の私は、そんな思いから物語を爽快にぶち壊す漫画太郎先生に惹かれたのかもしれない。

ところが今あらためて世界を見渡してみれば“ サザエさん時空 ” をめぐる戦いは実は随所で勃発していたということに思い至る。たとえば先週ブログで言及した『アンパンマン』は、そもそも永遠に終わらない戦いによって時空をそっくり絡め取るという離れ業をやってのけた。1年ほど前に長期連載に終始符を打った『あさりちゃん』は、36年間小学4年生だったあさりちゃんが最終回で平然と小学5年生に進級することで、「そうしようと思えばいつでも抜け出せたのだ」と時空の壁を笑い飛ばした。すべてを理解した上で時の流れに掉差しひとり流されず、正確無比の仕事に徹し続けるゴルゴ13については、あえて付け加えることはないだろう。

そして当の『サザエさん』である。誰もが心地よく永遠の日常に身をゆだねているかに見えるこの作品の登場人物たちこそ、実は勝ち目のない戦いを戦い続けてきたのだ――と、そんな妄想めいた感慨に私がとらわれたのは数年前、ある日の『サザエさん』を鑑賞したことがきっかけだった。それは上記3作品のようなドラスティックで小気味よい試みとは無縁の、悲壮なまでに真剣で愚直なスラップスティック。思い出すだに泣ける。『ドラえもん』『アンパンマン』についてブログを書いていたら、あの東芝のCMに挟まれたエピソードの鑑賞体験についても綴りたい衝動に駆られた。綴ります。

■ 「僕は一生、誰とも結婚しない」と磯野カツオは言った。

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それは、小学校で撮影する集合写真をめぐって、カツオやハナザワさんらが繰り広げるドタバタ劇だった。生徒たちは皆、撮影当日はめいっぱいオシャレをしていこうと躍起になっている。半永久的に記録されることになるから醜態は曝せない、少しでも上等なオベベでオシャマに写りたいという腹だ。たとえばナカジマなどは、誰も気づかないだろうにメガネを新調して得意になっていたりする。健気だ。カツオとの結婚という悲願を常に胸に抱いているハナザワさんは、何とかしてカツオとペアルックで写ってやろうと奔走する。もちろんあらゆる手を使って逃げ回るカツオ。ハナザワさんの執念には尋常ならざるものがあったもののペアルックは結局実現せず、難を逃れたカツオは今回の騒動で次のような人生観を得るに至る――

「僕は一生誰とも結婚しないよ。僕が誰かと結婚すれば、必ず他の誰かを悲しませてしまうからね」

しかし直後、ショーウィンドウのウェディング・ケーキを目にして彼はペロリと舌を出し、「やっぱり結婚したいなあ!」と叫んでオチがつくのである。

何と悲しい話だろうか。カメラのシャッターが下りる瞬間、着飾った生徒たちは皆、当たり前のように思い思いの笑顔を浮かべる。しかし誰もが知っているのだ、自分たちは永久にこの写真を懐かしく眺めたりはしないということを。それだけではない。この写真を撮ったことや撮影をめぐる様々な事件ですらすっかり忘れてしまうということを、彼らは身に染みて知っているのである。彼らの人生は全て、わずか一話分約8分間でいちいちリセットされる。東芝のCMを挟み、新たな8分間が始まる。そのとき彼らはすべてを忘れている。

もちろん、ハナザワさんのカツオへの思いはどの8分間においても持続してはいる。いや、持続しているものとして描かれてはいる。ただしそれ以上でも以下でもないのであって、単に相変わらず続いているものと皆が認識しているという意味でしかそれを「持続」と呼ぶことはできないのだ。「またハナザワさんが」とカツオはいう。「またやってるよあの二人」と誰かがささやく。素敵な結婚式のシーンをハナザワさんが妄想する。しかし、誰一人として彼らのそうした人間関係を形作っているところの具体的なエピソード――過去どこかの8分間で確かに体験したはずの――を覚えている者はいない。関係だけが常にそこにあり、記憶は抹消され続ける。いつの日かどこかで誰かと少し照れ笑いを浮かべながら「あんな時代もあったね」とかいって眺めるために撮られた集合写真は、けっして現像されない。ハナザワさんのまっすぐな思いは永遠に持続し、そして永遠に成就しない。カツオの背骨は1ミリたりとも伸びはしない。誰もがそれを知っていながら、それでも自分たちの存在を焼きつけられるはずのカメラという装置をめぐって全力を尽くすのである。

この絶望的な運命に、カツオはラストシーンにおいてささやかな反抗を試みた――「僕は一生誰とも結婚しないよ」。区切られた8分間の圧力に屈服している体を装いながらの、実に見事な手際、秀逸で高級な皮肉だ。とはいえ8分間は揺るがない。東芝は目前に迫っている。だから彼はケーキを前にしてあえて精一杯おどけてみせたのである。僕はここだよ!という想いを抑えつけながら。

■ 怒る子は育つ

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もちろん、カツオは本当にただケーキが食べたいだけだったのかもしれないし、みんな一切疑問を抱くことなくカメラの前に立ったのかもしれない。誰もが何の苦痛もなくすべてを忘れ、また新たな8分間に臨むのかもしれない。でも数年前のあの日の私には、とにかくカツオが怒り悲しみもがいているようにしか見えなかった。あの日、ちょうど何か嫌なことでもあって虫の居所が悪かったせいで、ひねくれた見方になってしまったのだろうか。すっかり忘れてしまったけれど、「ジャンケンポンうふふふ」とか「大きな空を眺めたら白い雲云々」とかが終わるのも待たずに本棚をまさぐり、中島らもの文庫本を手に取ったことはよく覚えている。目当ては、何度も繰り返し読んだ「怒る子は育つ」というエッセイだ。

「担任の英語教師は、その生徒の左利きを許さなかった。(中略)彼は生徒を教壇のところまで呼びつけて立たせると、『なぜ右で書かん』と怒鳴りつけ、生徒の胸に強烈な張り手をかました。『なぜだっ』『なぜ右で書かん』教師は怒鳴り続け、その『なぜだ』のたびに生徒に張り手をみまった。少年はそのたびによろけて後退っていき、ついに教室の後ろ側の黒板まで張り手で押されていった。後ろの壁に追いつめたところで教師は少年の頭をつかむと、『なぜだっ』と叫んでその頭を黒板にガツンと叩きつけた。それを見ている間中、教室中の生徒の背骨がミシミシと音をたてていた」

子どもが日々目に見えて大きくなっていくのは、「彼らが内に抱いている『怒り』のせいではないか」と中島らもはいう。「理不尽な叱られ方をするたびに、子どもは自分が子どもであることに耐えられなくなる。(中略)『今に見ていろ』という怒りや悲しみが彼らの背を日ごとに伸ばしていくのではないだろうか」と。

その通りだと思う。子どもはとにかく怒って育つ。たぶん遊ぶことと同じくらい、怒ることは子どもにとって大事な仕事だ。でも、ならば背骨が伸びないカツオの怒りはどこへいくのか。

いまでも、テレビアニメの『サザエさん』を見るとついそんなことを考えてしまう。そして “ サザエさん時空 ” 的なものに対する磯野カツオ的怒りは、自分が何事かを思ったりしたりするときの原動力としてかなり大きいかもしれないなあ、とあらためて思う。具体例を列挙しても仕方ないので、とりあえず「んがっんんっ!」と飲み込んでおこう。

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