文・石鍋健太
このところ、ドラえもん映画をたくさん見ています。新劇場版も何本か見てみたものの、やはり1980年代がすばらしくて、あれらのおかげで世界の不思議に目覚めた少年時代を思い出します。VHSの磁気テープが擦り切れるほど「ドラえもん」を見まくったあの頃。
思い入れが深いだけに、2005年の全面リニューアルにはかなりの衝撃を受けました。ハイビジョン制作への移行、声優陣と製作陣の一新、キャラクターデザイン・設定の変更など、新体制を迎えて「ドラえもん」はそれまでとはまったく別の作品になったといってもよいでしょう。その変貌については「よりマンガ原作に忠実になった」「新たな生命が吹き込まれた」といった肯定的な意見もあれば、「いまだに違和感がある」「どうも馴染めない」など否定的な声も上がっている模様。どちらがいいとか悪いとかは置いといて、「あれが何を狙っての変化だったのか」「この数年でどういう効果が出ているのか」など、ターゲットである子どもたちの志向の変化とあわせて分析するとおもしろそうです。が、当方私情が入りすぎてフラットに比べるのは難しいだろうし、そもそもそういうことをする手腕もないので、ここではあくまでも私見として、旧劇場版と新劇場版を見比べた感想を述べてみようかと。
■ 新旧『のび太の鉄人兵団』をめぐる葛藤
さまざまな本を取り扱う古本屋で働く身としては、好きなものに執着する姿勢を貫く一方、なるべく自分の世代とか環境に縛られない感性と眼差しでいろんな作品に接することも大切だよなあ、と思うことは思うのだが、新劇場版のドラえもんを見るとどうしても「ウムー」と唸ってしまう。こういう時、とことん自分の心の狭さを実感する。
何をどう感じるかはひとそれぞれ好みの問題だし、「それ以前に昔のドラえもんと今のドラえもんとは、作ってる人も演じてる人も違う別の作品どうしなのだから比べること自体間違ってる」とかいわれてしまえばそれまでなのだけど。
でもやっぱりどうしても割り切れない、彼らがドラえもんやのび太を名乗り、22世紀のひみつ道具を使っているかぎり。新『のび太と恐竜』(2006)には正直唖然とし、思わず「誰だおまえたちは」とつぶやいてしまった。とくにドラえもんの「あたたかい目」の表現方法とそのしつこさには絶句。数年後に子どもを連れて見に行った『のび太と奇跡の島』(2012)には、何がなんだか心がピクリとも動かず。さらにその2年後の『ひみつ道具ミュージアム』(2013)はたくさんひみつ道具が出てきてアトラクション的に楽しめたものの、やはり心は完全に沈黙。というわけで、これまで私は新劇場版に対し、「名匠・芝山努の不在」を実感することしかできなかったのだった。
ところが最近、あえて蓋をしていた新『鉄人兵団』(2011)を意を決して見たところ、とてもおもしろくて、溜飲が下がってしまって自分でも驚いた。あいかわらず感情表現が過剰なところとかやたら歌が挿入されるところとか、敵の頭脳を何のためらいもなく改造して味方にする代わりに心の交流で事を運んでしまうところとか、鼻につく“いまっぽい”箇所は数あれど、その“いまっぽい”やり方によってこそロボットとの戦闘シーンはすばらしく魅力的なものになっているし(旧作の芝山努監督による空気砲の表現には敵わないとはいえ)、メカトピアの窮状を丁寧に描いていたり、のび太の部屋の窓からザンダクロスの足を外に出す際にドラえもんが窓枠をはずすなどといった細部への気配りもまた、“いまっぽい”アニメならではの好感の持てる努力だと思った。
▲ 旧『鉄人兵団』の空気砲
そしてなにより、映画を横で一緒に見ていた娘の「鉄人、新しいやつの方がおもしろかった!」という無邪気な一言。これが私にとって決定的だった。父親になって数年間、「自分はもうこの人生の主役ではないらしい」と悟りきれない悟りを悟る瞬間が幾度もあったものだが、「ウムー」と唸る父の反応に気まずくなったのか「昔の鉄人もよかったけど、さ」と付け加えてくれた6歳児の困り顔を見て、私はその悟りの境地を行きつ戻りつしながらもついに、ドラえもん新劇場版をしぶしぶ受け入れたのだった。
■ 不思議じゃないリルル
ですが、と続きます。受け入れた上でなお、やっぱりケチをつけたいのが大山のぶ代と芝山努で育った者の心情。せっかくなので以下止めずに綴ります。旧作への愛の裏返し、新劇場版の完成度の高さへの負け惜しみとして、どちらのファンの方もどうか「あたたかい目」で見守ってください。
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なにしろ、新劇場版のリルルがちっとも不思議じゃないしちっとも怖くない。かつてあんなに不思議で、あんなに怖かった謎の少女リルルが。
▲ 旧リルル(左)と新リルル(右)
人物設定の問題ではなく、これはやはりジュドーを問答無用で改造せず、リルルの葛藤の解説役として生きながらえさせた作り手の罪だと思う。そもわけのわからない心の揺らめきのようなものをわかりやすく説明しようとする過程で、本当は言葉ではあらわせない(あらわさなくてよい)はずのもやもやが無理やり耳ざわりのよい感動話へと歪められ、その結果リルルという登場人物の魅力を大幅に減じることになってしまったのではないか。彼女がのび太に向かって言い放つ「いくじなし!」は、少年時代の私にとって実に不思議で怖くて、なんとなくわかるようなわからないような絶妙な響きを持っていた。その機微が新劇場版にはなかった。
■ もっと適当に子どもの顔面めがけて物語をぶん投げてほしい
新劇場版を見て、「なんか足りないんだよな」と私が思ってしまう時のその「なんか」は、どうやらこの不思議とか怖さとか、わかるようなわからないような感じとかそういうものだったようだ。 私はかつて、その感じをたとえば多摩川の底に沈んだはずのラジコンヘリが地下の大空洞に突如現れた瞬間に味わった。防護マスクをとった敵の首領が実はイケメン少年だったあの瞬間に、あるいは不死身の精霊王の正体が実は科学者だと発覚したあの瞬間に味わった。妖怪たちによってじわじわと歴史が塗り替えられていく現実世界の細部に、時空を超えて追ってきたメデューサの顔つきに、バミューダ・トライアングルの海底で7000年もの間核ミサイルの発射体制を維持し続けてきたコンピュータに、その感じを見出していた。
▲ 『のび太のパラレル西遊記』より、いつの間にかとかげのスープが大好きになっているパパ
▲ 『のび太の竜の騎士』より、ひとり物語を動かすスネオ
ああとてつもない物語がはじまった!おおはてしなく世界が広がってゆく!その感じへと没頭していく体験は、秘密道具の特性を生かした仕掛けとか、パラレルワールドや時間旅行といった概念を踏襲するだけでは再現できないものらしい。その感じが失われたのは、ひとつには新劇場版があまりに「わかる」こと、「思い」みたいなものが「きちんと伝わる」ことを重視しすぎてしまっているからではないか。先に言及したリルルの変貌に、どうもそのような過度な説明と感動癖の弊害が凝縮されている気がする。
そして、ドラえもんの威信がすっかりなくなってしまったのも、たぶんそのことと無関係ではない。秘密を抱えて悩み抜いたあげく、鏡面世界にこっそり忍び込んだのび太に声をかけるドラえもんのあのセリフ、「君の様子がおかしかったから、後をつけたんだ」にかつてどれほどほっとし、ドラえもんが頼りがいのある存在に見えたことか。そして、新劇場版でも一字一句同じことを言ったあの青い人にちっとも心惹かれないのはなぜ。単に声が違うからか、あるいは私がもう少年ではなくなったということなのか。とてもそれだけとは思えない。
▲ 『大長編ドラえもん10 のび太とアニマル惑星』(1990)
なんというか、昔のドラえもん映画はもっと、子どもを置き去りにしていたと思う。もちろんいい意味で。
「子どもはバカだからたぶん理解できないだろうけど、なんか不思議な感じが伝わりゃいい」
「子どもはアホだからきっと何十回も繰り返し見て、そのうちなんとなく理解するだろう」
そのくらいの感覚で放り投げられたものを、私は謎の不安に駆られながら必死で拾い集めていたような気がする。不安だったから、必死だったから、謎だったから、少年は頼りがいのあるドラえもんに縋りついたのだ、きっと。いまやその必要はなくなってしまった。穏やかに進んでいく物語にのっかって、ドラえもんはのび太らと同じ目線ではしゃいだり困ったり悪ふざけしたりしていればそれでよいのだ。
いましきりに宣伝されている新劇場版の新作『のび太の宇宙英雄記(スペースヒーローズ)』はものすごくおもしろそうだけど、きっとおもしろいんだろうけど、でもやっぱり本当は、昔みたいな怖くて不安で不思議な冒険の始まりが見たい。現代の子どもの顔面めがけて、もっと適当に思い切り物語をぶん投げてほしい。そうは思いませんかみなさん。
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