クラリスブックス初の写真展「Rの話し」が、先日終了いたしました!ご来店いただいた皆様、どうもありがとうございました。

本日のブログでは、前回に引き続き、写真展開催に合わせて行われたairi. さんによるワークショップの模様をお届けします。

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文・石鍋健太

■ “見る=読む” 行為を煮詰めた、正解も正着もないゲーム

ワークショップ「本屋で写真を読む」の“読む”とは、airi.さん本人の言によれば、「写真から情報を読み取るということではなく、写真を見て受けた印象、自分のなかに沸き上がる“感じ”を丁寧に読み取り、言葉としてあらわす」こと。そして“読む”対象は、写真家が自選した3枚の写真。参加者はまず、2~3分間ほど写真をじっと眺める。眺めつつ、紙片に言葉を書きつけていく。写っている事物の名称の羅列でも、それらから連想した言葉でもよいし、写真とは無関係に突如閃いた言葉でも何でもよい。とにかく写真を眺めつつ手を動かす。そしてそのいくつもの言葉をもとにして、写真家がファシリテーターとなってフリートーク。以上をそれぞれの写真について行う、というのがおおよその流れである。

airi.さんの写真をよく知る人は、その趣旨を聞いて首をかしげるかもしれない。彼女の写真への姿勢とこのワークショップとは相反するのではないか、と。「何も限定しない」姿勢でつくられた2冊の写真集については、すでに前回のブログで触れた。なるべく意味や主張や情報を薄め、“そのとき・そこ”に漂う何かを曖昧なままにとどめようとしてきた彼女が、なぜ言葉によってその何かを限定するようなワークショップを思い立ったのだろうか。

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1枚目の写真を取り出す前に、彼女は自らそのことについて語った。

「“そのとき・そこ”で自分が感じたもの、写真に撮りたかったものっていったい何だろう。それを言葉で正確にあらわすことは絶対にできないけれど、とにかく言葉をつかえば考えたり伝えたりするスタート地点に立てる」

逆にいえば、言葉をつかってしか考えたり伝えたりすることはできない。さらに違う言い方をするならば、決まった答えがないということは、裏を返せば何を言っても間違いではないということでもある。「正解を出そうとしたり、決めつけようとするのではなくて、言葉を通して1枚1枚の写真が持っている可能性にじっくりと向き合う」ことが、今回のワークショップの目的なのだ。その結果はどうだったのか。3枚の写真それぞれに投げかけられたいくつもの言葉について、以下レポートしていく。

 

・1枚目

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写真集『SABAKU』に収録されている1枚。アルジェリアの南方の砂漠、村やオアシスが点在している地域で撮影されたものだが、参加者たちはもちろんそうした情報を知らされずに、写真そのものとだけ向き合う。

井戸、水、渇き、砂漠――など、連想の仕方や順番は人によって異なるし、それらの言葉に付される形容詞もまた人それぞれ。この写真のなかの情景から生活感を受け取る人もいれば、打ち捨てられた廃墟とみる人もいた。なかには、「空ばかりが目に入り井戸の存在に気づかなかった」という声も。また、写真を見る前に食べていたパンの味や体調のよしあし、天候の具合、明日の予定など、写真を見る側の状況や体験によっても、出てくる言葉は大きく左右されたようだ。人間誰しも生きている以上、“見る”ことだけに集中することは難しい。

・2枚目

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この写真をめぐっては、まさに彼女が重視し続けてきた“関係性”が話題になった。写真家と被写体との間に瞬間的に築かれた関係がどのようなものだったのか、参加者はそれぞれの仕方で読み込んでいた。

airi.さんがこの写真を撮ったのは大学卒業後パリに移り住んで2年目、半官半民で運営される低所得者層向け住宅施設の住人たちを被写体とした連作ポートレートに取り組んだ時のことだ。

「パリ13区にあるとても古い建物で、生活の匂いが壁にしみ込んでいるようでした。カメラ片手に飛び込みで『写真を撮らせてください』とお願いして回っているうち、引き受けてくれた方がまた別の人を紹介してくれたりして、何度も通って撮影しました」

撮影にあたっては立ち位置などを指示するだけで、被写体に複雑な要求をすることはなかったという。モデルを引き受けてもらった後は、「ほとんど出会いがしらのような」撮影を心がけ、使うカメラやレンズの選定も含めて被写体との間の関係性と距離感を「つかず離れずのしっくりくる」ものに保つことに意識を集中したそうだ。

 

ふつう、1枚の写真だけにこんなにもじっくりと見入る機会はそうない。写真集や写真展のなかの1枚として見るのであれば、前後のページや展示構成に沿った見方になるし、1枚に割り当てる時間も自然と少なくなる。たとえば2枚目の写真が低所得者層向け住宅施設の住人たちのポートレート集としてまとめられたとしたら、その作品集を手にとった者は、この被写体と他の様々な住人たちとの比較から“見る”ことを始めるかもしれない。関係性や距離感について何かを思う間もなく、頁を繰ってしまうかもしれない。もちろん、それがよいとか悪いとかいうのではない。ただ、それはあくまでも無限に可能な見方のうちのひとつでしかない、ということをいつでもなるべく忘れずにいたい。

・3枚目

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さて、最後は3枚のうちもっとも抽象的な作品である。

「撮影場所は、パリのサン・マルタンという運河沿い。ガラスばりのブティックが並んでいるところ。たぶんそこだと思う。もしかしたら違うかも」

もはや写真家自身の記憶も曖昧で、いったいいつなんだかどこなんだか何なんだかわからないというのが、とても素敵。「見ているようで見ていないような写真」「真逆なものが融合されている」と、参加者の口から出てくる言葉も自然と抽象的なものばかりになった。これが写真家の感覚にもどうやら影響を与えた。

「見ているし、見ていないような感じといわれてハツとしました。写真を撮るときって、どこか具体的な一点を見つめていることもあるし、全体的になんとなくぼんやりと見ていることもある。後から、これをいったいいつ・どんな状況で撮ったのかまったく思い出せないものもあります。この写真にうつっている要素を1つひとつ分析すると、空、窓、窓にうつる建物、カーテン、という風になるけれど、実際には、私はそんなふうには世界を見ていなかった。確かに、“そのとき・そこ”の私の視点は “見る”ということにおいてどっちつかずのものだったと思う。そのことをいま思い出しました」

このように極めて曖昧な写真に、airi.さんは「できればタイトルをつけてみてほしい」とリクエストを出した。

「タイトルは作品の見方を限定してしまうので、普段はつけることに抵抗があって、なるべくそれを避けています。でも今日はせっかく何人かで集まって1枚の写真に集中する機会が得られたから、実験的にこの写真にみんなで名前をつけてみたい」

airi.さん自身は、「柔らかい雰囲気の写真だからあまり甘い言葉はつけたくないし、かといってサッパリしすぎるのも違う、そんでもって異空間的な感じも漂わせたい」などと考えた末、『昼にみた夢』というタイトルを付けたそうだ。参加者それぞれから個性的なタイトル案がいくつも挙がったが、airi.さんがもっとも気にいったのは『逃げていく窓』というもの。ちなみに発案者は、当店スタッフの最年長者・石村であった。

 

以上、店内に飛び交った言葉を並べたり入れ替えたりひっくり返したり繋げたり閉じたり開いたりはしょったり盛り増したりしつつ、ワークショップの様子をレポートした。

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時と場の制約によって“見る=読む”行為を煮詰め、感覚を過敏に働かせること。その上で自分のなかに湧き上がってくるものを、なかば強制的に読み取って言葉にすること。さらにその言葉を他者と共有すること。

振り返ってみてこの日の参加者たちの体験を要約すれば、そういうことになるかと思う。写真と言葉を素材とした正解も正着もないゲームに身を投じることで、参加者たちはそれぞれ多くの刺激を味わうことができたようだ。でも、この日一番の収穫を得たのは写真家本人だったかもしれない。

「自分の感覚が拡がった気がする」

airi.さんはワークショップの後にぽつりとそう言った。自分以外のたくさんの目に作品をさらし、その場で言葉をやりとりしたことで、自分でも気づけなかった自分を発見できたという、実感のこもった感想だと思う。

言葉は、言葉以外の何かをあらわすためにつかわれる。とても便利だけれど、あらわされる何かそのものには絶対になれない。あらわされる何かに似たものですらなく、それとはまったくなんの関係もないものである。だからみんながんばって言葉をこねくりまわす。ほとんど一語ずつ決定的に何かを間違いながら喋ったり手紙を書いたり、それを破ったりする。だから言葉で遊ぶのはたのしいし、くるしい。そんなことを、あらためてごちゃごちゃと考えた夜だった。

「本屋さんという、言葉に囲まれた空間で今日の会ができてよかったです」

本屋冥利に尽きるairi.さんの感想を聞いて、また言葉とそれ以外の何かとをテーマとした“何か”をクラリスブックスでできたらよいな、とぼんやり思った。