あけましておめでとうございます。高松です。
クラリスブックスの店舗の営業は1月5日からとなります。
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さて、今年最初に何を読もうか考えていましたが、年明け早々にシェイクスピアの「マクベス」読書会をお店で開催する予定なので、まだ読み切っていなかったから、そのまま「マクベス」を読み進めようと思ったのですが、おそらく、年末年始特有の不思議な浮世離れ感というか、日常とは少し違う街の雰囲気や、時間の流れのゆったりとして、だけどあっという間に過ぎてしまう、なんとも変な感覚に影響され、好きな作家の本を再び開いてみたのでした。
手に取ったのはドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」です。
(以前にもネタバレ注意のカラマーゾフブログを書きました。なんどもすみません!)
大学の時に新潮社版を読んで、数年前光文社古典新訳シリーズの亀山郁夫さんの訳で再び読んだときに、ぼんやりと心の片隅に引っかかったものがありました。特にどうということではないかもしれませんが・・・それはなにかというと、この作品の主人公は、アリョーシャではなく、イワンでもなく、ましてやフョードルやドミートリでもなく、実はスメルジャコフなのではないか、というおかしな考えです。
スメルジャコフは、本当なら他のカラマーゾフ家三兄弟と同じ地位に属することができたにもかかわらず、父フョードルの私生児であること、そして、自分の命と引き替えにスメルジャコフを生んだその母親が、街を徘徊するような、どこか“神がかり”的な不幸な女性であることなどから、一家の召使いという身分です。いわば奴隷です。
頭が良くてもなにかと器用でも、スメルジャコフは三兄弟には加わることができず、ずっと召使いのままです。
人間は皆生まれたくて生まれるわけではない、誰も自ら望んでこの世に生を受けるわけではない、しかし、人生のちょっとした喜びや幸せや快楽を感じることで、そのことに「ありがとう」と心から感謝をする。さて、スメルジャコフはどうだったのでしょうか?癲癇という病気を持ち、どことなく卑屈な態度で、常にカラマーゾフ一家の影に潜んで暮らしてきたスメルジャコフ。そんな彼は、人生に「イエス」と言ったでしょうか?もし言えなかったとすれば、彼の魂は救われたのでしょうか?
「死霊」の作者の埴谷雄高が対談のなかで、ヘレン・ケラーにはサリバン先生がいて、さらに彼女自身が才能に恵まれていたからよかったものの、もし同じ境遇の人間がいたら、時代や場所によっては、ずっと暗い牢獄に入れられ一生を過ごしただろう、というようなことを言っています。その人たちの魂はどうなるのでしょう。同じ人間なのに、人生に「イエス」と、そして生まれてきたことに「ありがとう」と言えるでしょうか?
私は、この作品にはどうしてもスメルジャコフという人物の存在そのものがテーマとして重要なのではないだろうか、と思えてならないのです。
我々人間は残念ながら平等ではありません。生まれや境遇、人それぞれです。しかし、人間として生きる権利は誰もが持っているはずです。そのような視点から考えても、「カラマーゾフの兄弟」という作品は、人間が人間として社会に存在する上で必ず浮かび上がる不条理で根源的な問題を鋭く追求した傑作なのだと思うのです。
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今年もいろいろなブログを書いていこうと思っています。本についてはもちろん、下北沢のこと、おいしいご飯のこと、映画のこと演劇のことなどなど。
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