9月6日(日)クラリスブックス読書会が開催されました。課題本は中上健次『千年の愉楽』を取り上げました。紀州熊野の山裾にある路地と呼ばれる集落の中本と名乗る一族の血を引く6人の若者の生きざまを綴った短編小説6作からなる連作集で、コンパクトに読める作品かなと思ったらけっこう歯ごたえがありました。参加者みな、どういう感想を述べてよいかつかみきれていないようでした。
ここで作中、印象に残った箇所を引用します。
「人の秘密の中に立ち入り人が生まれ出て来た最初に立ち会う仕事なので自分一人の胸におさめておき、他人には言うまいし言えないと心に誓った事は幾つもあった。オリュウノオバは生まれてくる者、礼如さんは死んでいく者を相手にしてそうやって産婆を長い事やっていて身についたのは、生まれてくるのは確かに生命のある生き物だがそれがすぐ人ではないという事だった。血をぬぐい落してへその緒を切り、さらに五体満足でもそうでなくとも親や親に代る者が人の子として認めてやってやっと人の赤ん坊という事になり、人の腹から出てつかの間に光を受けてまた闇にもどされても、生き物のまま子は自分一人で人の子になる事が出来ないから一層、小さく畏ろしい者に問いつめられているようで苦しいが、知らないものは知らないままでよい、とオリュウノオバはつぶやいた。」(「天狗の松」)
「生まれてくるのは確かに生命のある生き物だがそれがすぐ人ではないという事だった。」
産婆であるオリュウノオバが赤ん坊を取り上げる時の、最初の思いです。この本のページをめくり読み始めたもの誰も、このオリュウノオバと同じ感慨を抱くのではないのでしょうか。1冊の書物らしいがいったい何なのか。「読み進めない」「わかりづらい」「重苦しい」「とまどう」「苦手」などみな一様にとっつきにくさのようなものを口にしていました。だからと言ってつまらないからと言って投げ出すようなものではなくじっくりと「血をぬぐい落してへその緒を切り、さらに五体満足でもそうでなくとも親や親に代る者が人の子として認めてやって」やるようないとおしさをもった小説であったようです。
タイトルから作者の中上健次も意識して書いたとは思いますが、「百年の孤独」との類似が話題になりました。地域性へのこだわりや、神話的、幻想的な表現。またブエノスアイレスといった土地の名が、南米の文学との親和を感じさせるのでしょう。しかし「千年の愉楽」の舞台である「路地」の由来や作者の出自を知る読み手である我々は、深く南米の背景を知らずに読む「百年の孤独」ほど楽しく読むことはできず、重苦しい思いに囚われてしまいました。「路地」という場所と「血」の呪縛により何処にゆこうと抜け出せない主人公たちの閉塞感やいらだちは深く胸に刺さります。
だが、けっしてこの小説は重苦しいだけの作品ではありません。「千年の愉楽」と題されたのは逆説的な意味もあるのでしょうが、この作品にはそれだけではない愉しみに満ちていると思います。読書会で語られたこの作品の印象に残るイメージの断片にもそれはうかがえます。「路地という舞台の存在感」「登場人物の身体に流れる血の濃厚さ」「夏芙蓉、鳥の声、さまざまなにおいなど、五感に訴えるイメージ豊富さ」「これでもかの性描写」「善悪といった倫理観など超越してゆく主人公たちのハードボイルな生き様」等々様々なイメージが皆の心を打ったようです。「路地イコール濡れている場所」という発言もあり、これらは自分ひとりでは感じ取れない、読書会ならではと思いました。とにかく「千年の愉楽は」は、ひとりの参加者の方がおっしゃったように「重苦しい思い出読むのはもったいない」作品なのでしょう。
この連作は6人の主人公を取り上げた産婆である、オリュウノオバと呼ばれる女性の視点で語られます。オリュウノオバは文字が読めません。長く生きた人生のうちに見て来たもの、人づてに聞いたことが卓越した記憶力で蓄積されています。しかしその記憶にしまいこまれた物語は時系列を無視していつも現前にあるかのように語られます。彼女の物語は過去から未来へと自由に行き来し、寝たきりになっても山へ海へとはるか遠くまで飛翔してゆきます。
このオリュウノオバの飛びっぷりがこの物語を重苦しさから解放し、痛快なものにしているのではないでしょうか。オリュウノオバが見てきた6人の主人公たちは「路地」というけっして恵まれてはいない場所に生まれ、いずれも人の道を踏み外し、生き、そして若くして死んでいきます。そんな6人をオリュウノオバは全肯定します。女をないがしろにしようが、男を凌辱しようが、善も悪も飛び越え、他の登場人物たちなどどうでもよく、この世間からも歴史からも見捨てられた男たちをオバだけが「人の子として認めてやって」生まれてきたこの6人の男伊達に賭けます。オリュウノオバは語り手に徹するだけでなく、みずから物語に参入し男たちのひとりとまぐわいもしたりします。読書会も終わり間近そんなオリュウノオバを評し「オリュウノオバ腐女子説」という発言が飛び出し、一同なるほどと膝を打つ瞬間がありました。オリュウノオバの話になったらなんだか軽快で快活な物語になったような気がします。
これは私見なのですが、オリュウノオバは「千年の愉楽」の語り部、登場人物であると同時に、この小説の最初の読者(文字が読めないから聞き手)だったのではないでしょうか。中上健次が孕んで産み出した、路地に生まれ地と血の呪縛と宿命を描いた6つの物語を「生まれ出て来た最初に立ち会う」オリュウノオバの痛快な読みっぷりがこの「千年の愉楽」という小説として世に出たのだと思います。そして我々がそれを手にし、時にひとりで、時に今回のように読書会のような場所で読むことを重ねていくことで、作品をより豊かなものにしていくことこそ読書の醍醐味であると思います。時を越え、場所をまたぎ、真剣に、あるいはまた無責任に「知らないものは知らないままでよい」と百年、千年と読み継がれ物語が熟成されてゆく愉しさ。「読むこと」これまさに「千年の愉楽」といえましょう。
「つかみきれない」
読書会の始めと終りに同じ感想が聞かれました。みなこの作品をどう捕えていいのかわからずもらした「つかみきれない」という最初の感想の言葉でした。読書会の場で様々な角度から語られるみなの作品への思いを聴き、2時間余りでは語りきれない作品の魅力への思いからまだまだ「つかみきれない」というのが最後の感想の言葉でした。
石村
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