4月5日(日)に読書会が開催されました。課題本は柴崎友香作『寝ても覚めても』でした。2010年の作品ということで、久しぶりの現代日本文学となりました。長編ではあるのですが読み易かったのか、参加者全員が読書会当日までに読み終えることができたようです。小説の内容を簡単に言うと、ある女性のおよそ10年にわたる恋愛を軸にした人生のあれやこれやの変遷という、よくある物語です。だからさらりと読み流す恋愛小説なのかというと、そうではない読後感が感じられるようです。
この小説は主人公泉谷朝子の一人称「わたし」によって語らてゆきます。過去形で短い文章の淡々とした連なりで書かれています。「わたし」が通ってきた出来事や情景がまるで写真を一枚一枚見るように描かれてているという感想が今回の読書会でも共有されました。そこから「思い出」「記憶」といったキーワードが浮かび上がります。自らの恋愛の思い出と重ねあわされ読んだという発言もありました。人は体験したことの一つ一つをその都度切り取っては捨ててゆく、その断片のいくつかは記憶となり再構成され思い出となる。主人公朝子の「わたし」の体験の中から作者は文庫本訳300ページにわたる断片の数々をどのような意図で選び、残りの膨大な断片を捨てていったのか、私はその取捨選択の作業がかなり厳密に行われたと感じました。小説中で語られる「売れるのは犬猫」だから小遣い稼ぎに徹して犬猫の写真を売りまくる。といった姑息な意図で書かれた小説ではないと思います。
「わたし」の語りで話が進むので、肝心の主人公朝子の容姿が見えてこないという指摘に、そういえばと皆で改めて振り返ってみたのですが、部屋が汚いとか、周りに迷惑をかけるとか、服に執着する割にはセンスがいまいちとか、行動や嗜好は見えてくるが、朝子の姿かたちははっきりとは見えてこない。他の登場人物にしても朝子の視点を通しての印象なので、何かはっきりしない。ということで作者は読者に対して親切じゃないという意見がありました。移りゆく年月の中で、変貌する他人の事ももちろんだが、自分自身の事も捕らえきらずにいる、あやうい「わたし」という存在。自分にとって誰よりも謎の多い他人「わたし」。作者が朝子と通して差し出したのは読者ひとりひとりの「わたし」という存在だったのかも知れません。
よく行間を読むという言われ方をしますが、この小説は行間というよりも、書かれていない空間、それもかなり広く混沌とした空間を感じます。小説自体はラスト30ページにおいて劇的にかなりのスピード感で急展開して、一応の終わりをむかえます。しかし描写自体は淡々と短文の連なりを破綻する事無く端正に終始します。読み終え、本を閉じた後に、本の中には書かれなかったノイズだらけの空間の中に、読者が無数の「わたし」の物語を引き受けなければならない。「寝ても覚めても」を読み、読書会を通して作者が構築した世界が少し見えてきたような気がしました。
今回の読書会のレポート(というか個人的な感想になってしまっているのですが)を書いていて、「寝ても覚めても」という小説は意外なといっては失礼なのですが、ほんとに意外なほどいろんな事を書きたくなってくるというか、何を書いても語りきれない感じがしました。平易に書かれ、読むのにもそれほど時間を費やさないこの書物に、読み終えた後、無限の言葉を誘発されます。まだ読まれていない方にはぜひお勧めします。
今回の読書会には関西で暮らしていた方も参加され、主人公の関西言葉の微妙なニュアンスの変化などうかがえて、やはりひとりで読むより読書会の場は発見があるなと、あらためて思いました。
終わりに。この作品で私が一番印象に残った一文を。文庫本でいうと小説の冒頭から7行目の一文。
「今は、雲と地面の中間にいる。」
過去形の文章の連なりのなか、ここだけぽつんと現在形で書かれている。なんでなのでしょうね。
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次回の読書会は、ゴールデンウィークまっただ中、5月3日の日曜日に行ないます。課題図書は、ブルガーコフの『悪魔物語』になります。
詳しくは、下記ブログをご覧ください。
http://blog.clarisbooks.com/2015/03/25/4000
どうぞよろしくお願いいたします。
石村
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