仕事中、脇道にそれてしまうこと

よく、古本屋をやっていると本をたくさん読んでいるように思われることがあるのですが、私に関して言えばたいしたこと無いですね。むしろ店に来られるお客様のほうが遥かに膨大な読書量だと思います。足繁く本屋に通われ、いつも何冊もの書籍を抱えられている姿を拝見するにつれ、この方達に支えられて生きているのだなと感じます。私のような人間ばかりだと本の文化はどんどん廃れ、それに伴い社会も弱体化していってしまうでしょう。

仕事柄、本の仕分けや値段付けをする際には、本の状態のチェックもあり、中をちらちら覗きます。その時に本の内容に気をとられ、つい仕事の手を休め読みふけってしまうことがあります。フォークナーの小説が入った時は「何だあ、『意識の流れ』って?」とか思ったり、吉田健一の何とも言えない文体が気にかかってしょうがなくなったり。それがきっかけで自分の読書の幅が広がることはあります。この仕事のおかげで細々とではありますが、本を読むことの楽しみが継続できている気はします。

数日前文庫本の値段付けをしている時に目に留まった、講談社文芸文庫の大岡昇平「中原中也」の冒頭の文章に引き寄せられてしまったので紹介します。

中原

「昭和二十二年一月の或る朝、私は山口線湯田の駅に降りた。小郡で満員の山陽線を捨て、支線の列車が緩やかに椹野川の小さな谷に入って行くにつれ、私は名状しがたい歓喜を覚えた。それは不眠に疲れた私の眼に、窓外の朝の光の中を移る美しい谷間の景色の与える効果であったか、それとも亡友中原中也の故郷の家を見るのが、あと一時間に迫ったという期待から来る興奮であったか、私にはわからなかった」
『中原中也』大岡昇平 講談社文芸文庫より

末尾の「私にはわからなかった」というところまで読んで「何で自分のことなのにわからんのや!?」と思わず突っ込んでしまいました。「名状しがたい歓喜」の正体を語るかと思いきや最後のひとことで、がつんと一撃を加え、作者とともに中原中也の故郷を巡る探求の旅へと読者を誘う。名文というのはこういうのを言うのでしょう。恥ずかしながら中原中也も大岡昇平もまともに読んだこともないのですが、この本をきっかにできればと思います。

今回は仕事中に思わず脇道にそれることについて書きました。

石村


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