何も捉える気がないのに凝視 ―― 谷崎潤一郎の言葉と眼差し その1

谷崎潤一郎

文・石鍋健太

今年没後50年、来年には生誕130年を迎える作家・谷崎潤一郎(1886~1965)。この4月には戦災で焼失したと思われていた創作ノートが発見され、神奈川近代文学館では新資料を中心とした特別展を開催、中央公論社による新たな決定版全集の刊行もはじまっており、各所で谷崎メモリアルイヤーが盛り上がっています。これを意識してクラリスブックスの6月の読書会では、谷崎の代表作「春琴抄」を課題図書に。当ブログでも、谷崎文学について2回にわたって小論を展開してみますので、ご興味がおありの方はぜひお読みください。

谷崎潤一郎

■ テーマからの逸脱と変形

明治・大正・昭和を通じて旺盛な執筆活動を続けた谷崎潤一郎の文学には、さまざまな顔がある。自然主義が主流だった明治末期の文壇に耽美的作風で颯爽とデビューしたモダンボーイ、関東大震災後の関西への移住と日本伝統文化への目覚め、細君譲渡事件や三度にわたる結婚などいくつかの作品のネタにもなった女性遍歴、追い求め続けた古典美の世界や永遠女性のモチーフ、晩年の捧腹絶倒老人性愛文学、マゾヒズム、犯罪、怪奇幻想、異国、分身、活動写真その他いろいろ。

谷崎潤一郎
▲ そのテーマの豊饒さは、1990年代後半から2000年代にかけて中央公論社より刊行された『潤一郎ラビリンス』シリーズを並べてみるとよくわかる

一つひとつのテーマそれ自体がとても興味深く、まさに “ 潤一郎ラビリンス ” に迷いこむのは楽しい。これらを深く掘り下げた内容や、怪しげな実態を生々しく描いた物語に惹かれて谷崎を手に取る人は多いだろう。しかし読めば読むほど、事はそう単純ではない気がしてくる。谷崎文学の魅力は、むしろテーマからの逸脱や変形にこそあるのではないか、と。その変形っぷりのすさまじさと、そうする欲望がどこからくるのか、どこへ辿り着いたのかということについて、今回は「鮫人」を例にとって考えてみたい。

谷崎潤一郎

■ 未完の奇作「鮫人」

大正9年、谷崎は「鮫人」(大9・1、3~5、8~10「中央公論」、未完)という長篇小説に取りかかった。大作と意気込んで執筆が開始されたが、千代夫人をめぐる佐藤春夫との確執や、活動写真製作への接近で谷崎本人が執筆に興味を失ったことなどが重なったため、結局未完のままに中絶してしまった作品である。当時東京の大衆娯楽地として活況を呈していた浅草を舞台とした濃密な群像劇で、浅草公園を中心として堕落した生活を送る画家の服部、中国旅行から帰国した服部の友人の南、歌劇女優の少女・林真珠、その劇団長の梧桐寛治など、様々な人物が登場する。しかし、作中もっとも読者の眼前に迫ってくるのは、人々が乱雑に交錯し合う劇が浮かび上がらせる浅草の街ではなく、彼ら一人ひとりに向けられた視線が執拗に密着して捉え続ける “ 顔 ” である。その描写の一例をみてみよう。

 その横顔は常にも増して悲しげに打ちひしゃげ、寒風に曝されてでも居るように眼瞼  
をショボショボさせながら、どうかすると又酒が醒めかかったらしく襟頸をぞくぞくふるわせて居る。が、舞台を覗き込んで居る眼の方は顔よりも一層悲しげに、狂人のようにも、酔いどれのようにも、或は白痴のようにも見える奇妙な沈痛な光が燃えて居て、その光の底からは、例の襟頸をふるわせるたびに涙を湛えたような潤いが輝き出すのである。そうして顔が寂しそうにひしゃげればひしゃげるほど、眼はいよいようっとりとした光と潤いとを加えて行く。

執拗なまでの顔の描写は、歌劇団の団長・梧桐寛治という人物のそれに至っては、なんと十数頁にもわたって行われる。

 梧桐の首から下は、彼の偉大なる容貌を普通の人間の肩よりは一尺も高く持ち上げて居る足場なので、而も其の骨組は餘り頑丈に出来ては居なかった。火の見櫓でも少し気の利いた奴なら鉄筋で組み上げられて居る筈だのに、梧桐のは細い木か竹で出来て居るぐらぐらした安普請で、それが恐ろしく高いのだから、風が吹くと中途から真っ二つに折ッぺしょれてしまいそうだった。
其の顔は正直、奸悪、寛大、残忍、朴訥、偽善、豪胆、臆病、卑屈、傲慢、神性、獣性、愚鈍、神経質等、凡そ此等の矛盾する性情の特徴を、其のトゲトゲしく骨張った馬面のうちに悉く具備して居た。(※)

この調子で延々と続く描写は、南という青年の視線が梧桐の容貌を観察しているという体で行われるのだが、谷崎はこの詳細な観察を「研究」と言い換え、「一人の人間の容貌を説くのも一国の地勢をのべるのと同じ労力が要る」とまで述べているのである。このような顔かたちへの執着は、執筆の同時期に彼が活動写真に並々ならぬ関心を抱いていたことと関連している。たとえば、大正中期盛んに寄稿していた活動写真論のなかで、「人間の容貌」の魅力について次のように述べている。

 人間の容貌と云うものは、たとえどんなに醜い顔でも、其れをじっと視詰めて居ると、何となく其処に神秘な、崇厳な、或る永遠な美しさが潜んで居るように感ぜられるものである。予は活動写真の「大映し」の顔を眺める際に、特に其の感を深くする。平生気が付かないで見過ごして居た人間の容貌や肉体の各部分が、名状し難い魅力を以て、今更のように迫ってくるのを覚える。(「活動写真の現在と将来」(大六・九「新小説」))

「鮫人」における顔の描写は、あきらかにこの「大映し」、つまりクロースアップの技法から影響を受けたものであり、谷崎は、どんな微細な表情をも映し取ることのできるクロースアップに魅力を感じ、それを書くことにおいて表現してみせようとしたらしい。

しかし、先に引用した顔の描写において、谷崎の筆ははたして「人間の容貌」を詳細に忠実に描き取っているだろうか。少なくとも私にはそうは思えない。梧桐という男はいくつもの細部に分解され、その一つひとつが極限まで拡大された醜怪な断片として示されることによって、本来の姿かたちを変形させられてしまっているのである。つまり、ここに描かれているのは、もはや顔ではない別の何かなのだ。谷崎の意図がどうであれ、その眼差しは事実としていかなる表情も顔も映し取ってはいない。異様で執拗なクロースアップは、対象を奇妙に歪めてしまう。

文学においてはしばしば、対象をリアルに描くこととか、「まるで目に浮かぶような」情景描写とかが重視されるが、この小説の場合にはどうやらそれは当てはまらない。いかに膨大な言葉を費やして対象を詳細に記述しているようにみえても、その描写はリアルとはまったく別の方へ向かおうとしているのだ。「鮫人」における谷崎の眼差しは、「人間の容貌」を余さず捉えようとするのではなく、眼前の対象を、その実体とはまったく無関係に構築し直し、かけ離れたものへと変形させることを強く欲望しているのである。

次回のブログでは、このような欲望の果てに成った不思議な作品「陰翳礼讃」に焦点を当てて考察していこうと思う。

 


小林秀雄は、「鮫人」におけるこの顔の描写を取り上げながら、谷崎の書記行為について次のように指摘している。「この饒舌な描写によって読者が、果たして梧桐といふ男の顔を鮮やかに眼に浮かべる事が出来るか、出来ないかなどといふ事は全く問題にならない程、この文章は壮観で、まことに洒落や冗談で出来る仕事ではない、又、単なる才能の氾濫として説明出来難いものだとすれば、明らかに、肉眼が物のかたちを余す所なく舐め尽す不屈な執拗性の裡に陶酔しようとする、氏の本能的情熱を示す好例である。(「谷崎潤一郎」(昭六・五「中央公論」))

 


カテゴリー: おすすめの本, エッセイ, クラリスブックスについて パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です