文・石鍋健太
先日、子どもを連れて上野動物園に行った。何がたのしいって、「生まれて初めてゾウを目撃する人間」の表情をじっくり観察できるのがすごくたのしい。
たぶん中島らものエッセイだったと思う。子どもにゾウの存在を教えなかったらどうなるか、みたいな話があった。赤ん坊が生まれたら、とにかくゾウについての情報を遮断する。ゾウのぬいぐるみもゾウのガラガラも禁止、ゾウが出てくる絵本やテレビ番組は見せない、図鑑のゾウの頁を切り抜く、ゾウの歌が聞こえてきたら喚いて音をかき消す、など親が日常的に努力するのはもちろんのこと、友人・知人・教師らにも協力を要請して、子どもからあらゆるゾウを遠ざけ、ゾウについて見たことも聞いたこともない状態を維持し続ける。そして20歳の誕生日に初めて動物園のゾウの檻の前にその子どもを連れて行く。生まれて20年目にして初めて、あんな巨大な、異様に鼻の長いやつを目にしたら、彼/彼女はどのような反応を示すだろうか、というわけだ。
まさかそんな実験を本気でやる親はいないだろうけど、気持ちはわかる。他人が「生まれて初めて」に心から感嘆する様子を間近で見られるというのは、子育ての醍醐味だと思う。「生まれて初めてグミを食べる」とか「生まれて初めて『天空の城ラピュタ』を見る」とか、主に“食べる”系か“見る”系の驚きが横で見ていて分かりやすくてたのしい。なかでも圧巻なのはやはり「ゾウ」だ。
檻のそばに近づくまでは、細心の注意を払って腕のなかの子どもの視線をよそにそらしておいた。遠くから小さなシルエットに気づかれてしまってはインパクトがないからだ。ぎりぎり手すりまで接近してから、満を持して体を捻って彼の視界正面にゾウを据えたところ――
一瞬、ビクッと1.5歳児の体の震えがこっちに伝わってきて、顔を見てみると目も口もめいっぱい開いてマンガみたいな驚きっぷり。そして数秒たってから彼はただ一言こうつぶやいたのだった、「ゾウ」と。本当です。
さて、「生まれて初めてゾウを目撃する人間」の様子を観察してたのしんだ後は、自分自身も動物園に来るのはかなり久しぶりだったので、サイとかトラとかゴリラとかペンギンとかハシビロコウとかを見て回った。見て回っているうちに、これまた中島らもの小説『水に似た感情』のなかに出てくる、「羽根をひろげると蛇そっくりの顔になって外敵から逃れる蝶」についての議論を思い出した。
「こいつのデザインというのは誰が考えたんだ」
「何か昆虫間の大きな意識みたいなものがあって蛇用のタクティクスを考えたということですか」
なんなんだろう。動物ってなんでこんなにかたちがいちいち違うんだろうか。たとえばイヌとかネコとかは、見慣れてるせいかもしれないけどかなり無駄のない、美しいかたちをしていると思う。馬なんかもなかなかいい。それにひきかえさっきのゾウの鼻は鼻なのにまるで手みたいに動くし、サイとかもじっくり見つめると背中の盛り上がりかたや顔のバランスがちょっと凄すぎる。「ほとんど動かない鳥」として有名なハシビロコウだって、「獲物に気づかれないためです」とかいってるけど、そんなの誰が真に受けるか!あの動かなさ加減の説明としては明らかに弱すぎてかなり不安になる。その他いろいろ、見れば見るほど進化論とか多様性とかがウソっぽく冗談っぽく陰謀っぽく思えてきて、いっそゲーテの『形態学論集 動物篇』か何かを読んでみたくなったのだけど、たぶん帰宅する頃にはこういう読書欲は子どもたちの喧騒に揉まれるうちに萎んで消えるだろうなと思っていたらやっぱりその通りになってしまい、こうして「いつか読む本リスト」がまた一冊、増えたのだった。
ちなみに、ちょうど店頭に動物のデザインについて考える役にたちそうな本があったので、以下に紹介しておきます。
奇怪動物百科
ジョン・アシュトン 博品社 1992年
外カバー欠 表面少ヨゴレ、小口少ヨゴレ・シミ有
裏表紙見返しにレッテルハガシ跡有
800円
動物と地図
ウィルマ・ジョージ 博品社 1993年
外カバー欠 少スレ・ヨゴレ 小口少シミ有
1,000円
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